小説「ほんまに、おおきに」

2020年12月4日

作 13代目 亀屋嘉右衛門

コロナ以後、実際に起こった出来事をもとに京都を舞台としてフィクションを描きました。
京都文学賞に応募いたしましたが、落選しましたので一般公開させていただきます。
地元の人しか知らないような京都洛北の地を舞台として描いているので、ぜひ訪れてみてください。
普段の京都観光とは違う楽しみが見つかることでしょう。
花街に関しては実際の事象とは違う部分もありますのでフィクションとしてお楽しみください。
基本的に京都新聞に掲載された事象をもとに、架空の登場人物たちのストーリーを綴っております。
どうぞお楽しみください。

※作中に登場する人物・団体・お店などは実際の方々とは関係がございません。
御了承ください。
また、Wordでの縦書き原稿もありますので、下記よりダウンロードをしてください。
https://gelato-vene.com/wp-content/uploads/2020/12/okini.docx

 

あらすじ

2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
11月

おまけ『女将の追憶』
おまけ『トキとタマ』

あとがき

 

あらすじ

京都の観光において、人を惹きつけてやまない花街。
京都の伝統芸能を守ってきたお茶屋や置屋であったが、新型コロナウィルスの感染拡大はその花街も例外ではなく、大きな影響を被っていた。
踊りの会、祇園祭など様々なイベントの中止に揺れ動く。
その花街に生きる一人の芸妓がどのように様々な出来事を乗り越え、新しい道を歩んでゆくのか。
また、幼馴染との再会、舞妓のコロナ感染、送り火など実際に起こった出来事を踏まえ、京都に生まれ育った芸妓の女性と庭師の男性との気持ちの変化を追った物語である。
洛北の地に視点を置いて紡がれる物語は、地元の人ならではの楽しみも網羅している。
変化を余儀なくされる社会。
移り行く人の心。
その中で文化をどのように継承してゆくのか。
ウィズコロナとして現代を生き抜くリアルな心情を綴った恋愛物語。

2月

「おかあさん、美冬ねぇさん、お願いします。」
美春は落ち着いた声で鋏を差し出した。
祇園甲部の置屋『たま居』の女将である珠美は慣れた手つきでそれを受け取り、真っ白な愛らしい元結(もっとい)に鋏を入れる。
次に鋏を受け取った美冬は毎回その重さをかみしめながら、美春の地毛で結われた日本髪の先笄(さっこう)に手を添えた。

今までで一番手のかからなかった美春だが、初めて名をつけてからもう5年もの月日が過ぎていたことに改めて驚く。
毎回のこととはいえ、何とも言えない寂しさと感激が胸をよぎった。
明日からはもう、一本立ちの芸妓。
無言で自分に言い聞かせ元結を切った。
「次は美紗(みさ)ちゃんぇ。こっち来よし。」
美春の妹分の舞妓の名を呼ぶ。
美紗はものおじもせずに鋏を受け取り、あっさりと元結に切り込みを入れた。
「美春ねぇさん、これからもよろしゅうおたの申します。」
可愛らしい声で美紗は言うとくるりと踵を返し女将に鋏を返した。
「さぁ、はよぅ小林さんとこへ髪切りに行って来よし。」
女将は美春を立たせ、ちらりと壁にかかった古めかしい振り子時計を確認した。
舞妓は地毛のみで髪を結うが、襟替えの儀式の後に芸妓になると鬘を使用するために髪を切る。
髪結いの小林美容店でも、きっとお祝いの挨拶などで時間を取られるため、今からなら夜の座敷には間に合うだろうと女将の珠美は思った。
「うちも一緒に行ってもよろしおすか?」
美紗と呼ばれた舞妓が女将を振り返る。
「あんた、この後ランディ先生のとこでお稽古やないの?この間も畳のヘリ踏んだ言ぅて先生怒ってはったやない。行く前にもうちょっと勉強しよし。」
呆れたように女将は言う。
「はーい。」
美紗は残念そうにぷっと頬を膨らませた。
「美紗ちゃん、帰ってきたら元結あげるさかいな。ほな、おかあさん、美冬ねぇさん行ってきますよって。」
美春はそう言うと部屋を後にした。
「おおきに!美春ねぇさん!」
美紗も嬉しそうに後をついてゆく。
残った女将と美冬は少しの間、無言でたたずんでいた。
すると小母(あば)の志保が顔を見せ、小さなメモを女将に渡すと部屋から出て行った。
「長いこと、お疲れはんどした。」
女将は腰を下ろしながら美冬に告げる。
「おかあさんもお疲れはんどした。」
美冬もその隣に正座する。
「もう、何人目やったかいな。」
「美春ちゃんで6人目どす。」
「・・・6人全員を襟替えさせるやなんて、あんた、なんぞあの娘らに言ぅてんのか?」
にやりと笑いながら女将は言った。
「今どきの若い子は何をゆうても聞かしまへん。うちは運が良かっただけどす。」
美冬はそう言うと女将から渡された逢い状を懐にしまって頭を下げる。
「あんたには、ほんまに。・・・感謝してるんぇ。」
女将は美冬を見据えると静かに頭を下げた。
「おかあさん・・・。」
「これからも、あんじょう頼むぇ。」
「へぇ、こちらこそ。」
美冬はそう言うと三つ指をついて頭を下げた。

2020年2月。
一人の舞妓が芸妓へと変わるため、襟(えり)替えの儀式が行われた。
もう何十年と繰り返された慣習は今回も無事に終わりを迎える。
暖冬の影響で梅も早々に咲き始めた頃、美春は芸妓として新たなる道を歩み始めたのだった。
北野天満宮ではピンクや白の梅が咲き誇り、甘い香りを参拝客に振りまいている。
折しも世間はクルーズ船の新型コロナウィルスの蔓延で大変な騒動が起こっていた。
花街は変わらず世間から隔離された時間を繋いでゆくものと、そこに住まう者たちの多くは思っていた。
しかしそのすぐ後に花街も大きな渦に飲み込まれることとなる。
すでに2月中旬には国内における感染者が増加し、暗雲が様々な業界に立ち込めていた。

 

3月

ひな祭りを前に花街に衝撃が走る。
3月2日に発表された『北野をどり』の中止発表を皮切りに、『京おどり』『都をどり』が相次いで中止と発表された。
例年の春の踊りに向けて日々練習に励んでいた美冬達も突然の中止に驚くばかりだった。
「せっかく間違えんと踊れるようになったのに。」
美冬の部屋に朝早くから鏡台磨きに来ていた美紗はついつい愚痴をこぼしてしまう。
「間違えんと踊るんは当たり前やんかいさ。」
美冬は思わず苦笑する。
「でも、そうやなぁ。せっかく気張って練習してたのになぁ。」
美春も少し残念そうだ。
先輩の身の回りの片づけをする鏡台磨きに美春も来ていた。
本来、襟替えをして一本立ちした芸妓は鏡台磨きに来なくてもいいのだが、三年間の奉公の間は来させてほしいと美冬に頼み込んだのだ。
美春は何よりも鏡台磨きの後に味わう美冬のサンドイッチが楽しみだった。
ある時はポテトサラダをたっぷりのせたホットサンド。
ちょっと夏場の暑い時期にはふわふわ生地の食パンにピリ辛の麻婆ナスをはさんで。
美春の大好きな深山のだし巻き卵をクロワッサンにサンドして。
毎日飽きないようにと工夫して手作りされたサンドイッチを食べると自然に笑顔になってきて、どんなに忙しくても一日頑張れるエネルギーに満たされる。
お稽古に、あいさつ回りにお座敷にとバタバタする日常の中のひと時のオアシス。
美冬の部屋はいつも明るく楽しい笑顔に溢れていた。
美春はサンドイッチが出来上がるまでの間に今日一日の美冬のスケジュールをチェックし、必要なものを用意したり花屋へ注文メールを送ったりと細々とした段取りを済ませてゆく。
いつも何かと世話を焼いてくれる美冬へのせめてもの感謝の気持ちだ。
そして美紗が掃除を済ませたのを見ると、さっと側に行き日本髪を直してやる。
「美春ちゃん、ありがとうさんぇ。」
食事の用意を終えた美冬が声をかける。
今日はカリカリに焼いたバケットに鱈のバターソテーをサンドし、サラダとヨーグルトを添えたものだ。
こうしていつもの3人の朝食が始まった。
「そうそう、鴨川をどりも中止になるみたいぇ。市華ねぇさんがゆうてはったわ。」
「え?美冬ねぇさん、市華ねぇさん知ってはりますのん?」
美紗は驚いた。
「知ってるも何も、三味線の桜田先生のとこでいつも会うてますがな。」
「えー!うちの憧れなんどすぅ。キレイで優しぅて、ムッチャえぇ匂い!」
目をキラキラとさせる美紗。
「美紗ちゃんは何で知ってんのん?」
美春はサラダにイタリアンドレッシングをかけながら聞いた。
「去年のお年賀の時に扇子やら入れてた籠を落としたんどすけど、それを拾ぅてくれはって、おまけに紅茶館までお茶に連れて行ってもうたんどすねん。」
「へぇー、そらよかったなぁ。」と美春。
「もう、夢みたいな時間でしたわ。まさに天海祐希って感じ。」
「それ、宝塚やん!」
いつものように変わらぬ時間は3人にとってとても大切なものだった。

3月の半ば頃のある日。
春の訪れを告げるミモザの花が満開で、その可愛らしい小さな黄色い花が風にふわりふわりと揺れていた。
たま居の女将である珠美は、置屋やお茶屋などを支援する『おいでやす財団』が主催する会議に出席していた。
おいでやす財団は京都市の置屋とお茶屋を支援する目的で作られた財団で、理事長は財界の大物である大石満雄が創設した組織である。
様々な花街のPRをはじめ、五花街合同公演の踊りの会を企画するなど花街とは密接な関係を築いてきた。
花街で行われる踊りの会の日程調整やビアガーデンの企画などをはじめ、様々な規格の支援を行うとともに歌舞伎界や芸能界との橋渡し等その役割も多岐にわたっている。
むろん財団の運営資金面においても大石の全面的な協力が約束されていた。
そのおいでやす財団の会議室は普段とは違い、さながら着物のファッションショーかと見紛う程の華やかさであった。
異例の緊急会議の呼び出しを受けて市内の置屋やお茶屋の女将が勢ぞろいしていたのだが、春を先取りしたあでやかな色合いの着物の面々がそれぞれに個性的なオーラを放っている。
今回の進行役である山岡は女将達が着席するとマイクを取った。
「えー、皆様お忙しいところをお集まりくださいまして、誠にありがとうございます。事務局部長の山岡でございます。今回は各花街におかれまして春の踊りの会の中止にご協力くださり誠にありがとうございました。現在、新型コロナウィルスの感染拡大により、今後の合同公演および秋の踊りの会の開催につきましては順次情勢を見ながら決定してまいりたいと思っておりますので、何卒ご協力の程よろしくお願い申し上げます。」
「ちょっとよろしおすか?」
そこで声を上げる一人の女性。
桜の乱舞に錦糸で鶯をあしらった艶やかな姿は先斗町にある置屋『浜西』の女将である。
「どうぞ。」
山岡の声に職員の一人が走ってゆき、女将にマイクを差し出した。
「先斗町、浜西の大塚どす。春の踊りはかましまへんけど、秋はまだ先のことやおへんか。中止ありきのような発言は聞き捨てなりまへんな。」
女将は涼しげに言う。
「もちろん、中止ありきということではございません。ただ世間では7月のオリンピックの延期も囁かれている状況で先の見通しが立たず、そういった事態も予想されるとのことでございまし」
「あたりまえの返事が聞きたいんやあらしません。今回の春の踊りの中止に伴う負担は各花街が引き受けたんどすけど、合同公演や秋の踊りまでとなると花街だけでは到底無理な話どす。」
少しずつ声が熱を帯びる女将。
「もちろん、財団といたしましてもできる限りの支援はさせていただくつもりでございます。しかし、今後、営業自粛ということも予想されますので、皆様のご協力を何卒、賜りた」
「営業自粛てどないなことですのん!」
ついに浜西の女将は声を荒げた。
「うちらに首括れ言わはるんどすか!」
他の女将もそれに続く。
「大体この席順かて何どすのん!五十音順て、うちらを馬鹿にしてはんのどすか!」
「ビアガーデンかて中止なんどすか?!」
「祇園さんやらの奉納舞踊もどすか?」
会議室は一気に蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「皆様、お静かに!お願いいたします!」
山岡の必死の声も空しく吸い込まれてゆく。
たま居の女将はつくづく山岡の進行の下手さに呆れ、しばらく静観していた。
しかし、5分がたち、10分が過ぎても収まる様子はない。
仕方なく近くにいた職員にマイクを持ってきてもらうように頼んだ。
マイクのスイッチを入れ、指先で軽く叩いた後に話し出す。
「甲部、『たま居』の珠美でございます。」
京都人特有の口をあまり開けない話し方。
しかしその声はざわめく会議室に不思議と染み渡り、一人、また一人と口を噤む。
まだ少し話声は聞こえたが、珠美は構わず続けた。
「今回の事態は誰も悪いことはあらしません。営業自粛かてまだ決まったことやおへん。それに理事長かて何もしぃひんとは言ぅたはらしません。そうですね?山岡はん。」
急に名前を呼ばれた山岡は飛び上がる。
「・・・は、はい。まだ具体案は申せませんが、すでに対策班を組織して動いております。」
山岡は何とか声を絞り出した。
「ほな、とりあえずそれを待ちまひょか。他にできることもあらしません。踊りの後の『足あらい』も中止やさかいにキャンセルやらでバタバタしとりますよって、ほな、ごめんやす。」
珠美はそう言うと会議室をさっさと出て行ってしまった。
嵐のように過ぎ去った珠美の発言の後、なおも言い募る女将達は財団との話し合いを1時間以上も続けたがそれ以上の進展はなかった。

その10日後、桜が咲き始めた4月早々に花街にさらなる激震が走る。
おいでやす財団の理事長が京都大学へ緊急入院。
新型コロナウィルスに感染とのことであった。
3月中旬に理事長に会った芸妓・舞妓・女将達はかなりの数に上ったが、一人残らずすぐにPCR検査を受けるために保健所へ走った。
感染経路確認の為に保健所の職員は接触した可能性のある人のことを質問したが、普段から口の堅い芸舞妓たちは貝のように誰一人としてピタリと口を閉ざしたまま、何も語ることはなかった。
幸いなことに全員が陰性であったものの、身近に迫った危機感と恐怖感はかなり大きく、花街の女将達は全員一致で、世間よりもいち早く4月7日より営業自粛することを決定した。

 

4月

「美冬ねぇさん、お稽古もお店も休みどすし、うち、富山の実家に帰りますよって。・・・美春ねぇさんはどうしはるんどす?」
営業自粛開始の翌日である4月8日の朝、美冬のもとに鏡台磨きに来ていた美紗はそう言った。
「そうやなぁ、いつまで自粛が続くんかも見えへんし、うちも帰ろかな。」
「確か、美春ちゃんは神戸とちごた?」
朝食の用意を終えた美冬はエプロンを外しながら聞いた。
「そうどす。元町の方どすねん。」
「わぁー!確か中華街近いんとちゃいますのん?行ってみたいわぁ!」
美紗は目をキラキラとさせている。
「今度、ご贔屓さんとご飯食べに行ったらええやないの。」
「そんなん、コロナでいつになるかわからしません。」
美春の言葉に美紗はつい唇を尖らせる。
「ほな、おかあさんに頼んどきよし。ねぇ、美冬ねぇさん。」
「そうやねぇ。」
美冬は苦笑しながら応えた。
「今度ゆうときますよって。・・・美冬ねぇさんは実家へ帰らはらへんのどすか?」
「うーん。」
珍しく歯切れの悪い返事に美春と美紗は顔を見合わせた。

美冬の実家は京都の下鴨にある。
いつでも帰れる距離にはあるのだが、今まで正月の元旦以外に帰ることはなかった。
美冬がこの世界に入る時、父に猛反対されたのだ。
「平岡の娘が水商売なんぞ、あかん!絶対に認めへん!」
あんなに激怒した父を見たのは生れて初めてだった。
反対を押し切り、逃げるように置屋へ身を移した美冬にとって、父のいる実家はずっと帰り辛い場所であった。
たま居の女将に言われ、正月の元旦だけは帰ってはいたものの、あまり顔を合わせないように初詣に出かけたりしてまともに話すこともなかった。
父もいつも無口で、だからこそ余計に居心地がよくなかったこともある。
だが美紗の言うようにお店は休業、お稽古も当面は自粛ということもあり、ぽっかりと空いた時間をずっと一人で過ごすのは持て余しそうだ。
実家の母も気にかかる。
仕方ない、帰ろう。心の中で美冬はそう決めた。

「ただいま。」
父が仕事で実家にいない昼間を狙って美冬は帰宅した。
春らしい陽気だったので、ジーンズに白いニットのセーターとピンクのカーディガンを羽織ったカジュアルな感じで、スーツケースに着替えなどを詰め込んで帰ってきた。
「おかえりー!」
母の佑子は嬉しそうに娘の荷物を受け取ると聞いた。
「ね、お昼食べた?」
「ん、まだ。」
「鯛ちらし、食べる?和久傳の。」
「食べる!」
好物のお弁当ともなれば一気に気分が切り替わる。
自分の現金さに半ば呆れて苦笑しながら手を洗った後、キッチンにある折箱を見つけるとそれを持ってリビングへと移動した。
お弁当は二段の『かさね』で、昆布締めした薄切りの鯛の刺身を並べた鯛ちらしの段と、子芋や南瓜などの炊きものなどが入った段に分かれている。
透き通る鯛の身とご飯を一口食べた。
しっとりとした鯛の食感に昆布のうまみがじわっと広がり、ご飯の仄かな甘みとハーモニーを奏でる。
「やっぱり美味しいわ。」
美冬は幸せな気持ちに包まれた。
美冬の部屋に荷物を置いた後、温かいお茶を入れてきた母は美味しそうに食べる美冬を眺めていた。
「それ、お父さんが頼んでくれはったんやで。」
食べ終わりお茶をすする美冬に母はそう言った。
「え?お父さんが?」
「昨日にあんたが返ってくるゆうさかい、お父さんがわざわざ電話で頼んでくれはってな。」
「ふーん。」
父がたまたま注文した弁当が自分の好物だったことを少し疑問には思ったが、美冬はさらりと流してしまった。
「さ、ほな、ちょっとお母さんは買いもん行ってくるさかい。」
「うん。」
「あ、今、裏に庭師さん来てもうてるさかい、終わったらお茶出してや。冷蔵庫に『ふたば』の桜餅入ってるし。」
庭を振り返ると職人らしき人が梯子を上っていた。
「うちも、もうてええ?」
「ちゃんと買うたあるさかい。ほな、頼むえ。」
そう言うと母はマスクをして出かけて行った。

美冬は久しぶりに自分の部屋に入る。
年に一度しか返ってこない自分の部屋。
しかし母はいつでも帰ってこれるように綺麗にしてくれていた。
中学生の時に好きだったドリカムのCDも、集めていたキティちゃんグッズも、クローゼットの洋服までもが当時のままだ。
まるで時間が止まっているような部屋は、ある意味で母の心の中の美冬を表しているのかもしれない。
大切にされている感覚が嬉しくもあり、少し申し訳なくも感じる。
コロナで実家に帰ることになるなんて想像もしていなかっただけに、何だか自分が自分でないような不思議な気持ちだった。
ふぅ。ため息をついてごろりとベッドに横になる。
ふわりとお日様の香りが美冬を包んだ。

「すいませーん。終わりました。」
男性の声が玄関からしたので、美冬はお茶と桜餅をお盆にのせて向かった。
「はーい。ご苦労はんどす。」と言いながら職人の顔を見る。
「けーちゃん?」
職人は三村佳介という美冬の幼馴染だった。
「真由美ちゃん?」
佳介も驚いて声を上げる。
美冬というのは源氏名であり、本名は平岡真由美という。
同い年で同じ1月の生まれということもあり、すぐ近所に住む佳介とは毎日顔を合わせていた程の間柄だった。
「久しぶりやわぁ。元気?」
「お、おぉ。・・・珍しいな。帰ってきとったんか。」
佳介は汗を拭いて応えた。
「そんなとこ立ってんと、まぁお座りやす。あったかいお茶と和菓子あるさかい。」
「おおきに。」
「あ、うちも桜餅持ってこよ。」
美冬が台所から引き返してくるまでの間に佳介は上り口に腰を下ろし、一口お茶をすすった。
ほうじ茶の香ばしい香りがすぅっと喉を通ってゆく。
「朝から来てたん?」
戻ってきた美冬が尋ねる。
「いや、昼前からやな。今日はちょっと枝先を揃えに来ただけやさかい。」
佳介はそう言うと桜餅を一口でたいらげた。
美冬はそっと桜の葉を取ってから食べ始めた。
「真由美ちゃんは昔から桜の葉っぱ剥いてたな。」
「これが普通やん。うちはみんなそうやで。」
「皮ごと食べた方が美味しいやん。この大島桜の香りがより一層ふぁーっと口の中に広がって・・・。」
「皮だけ食感が違うやん。ってこれ、小学校の時もあんたにゆうたやろ。ほんまに小学生のまんまやな。」
同級生との会話は特別で、一瞬にして何十年と時間が巻き戻る。
中学を卒業してすぐに花街に入った美冬にとって、他人との会話は気の休まるものではなかった。
厳しい先輩や女将の顔色を窺い、また同僚とて陰口や妬みの対象にならないようにと気を付ける必要もあった。
さらにお得意様は経営者や上流階級の人が多いため普段以上に気を遣う。
しかし同級生、しかも幼馴染との会話ともなると、駆け引きのない心休まる時間がそこに存在した。
一生懸命作った泥団子の話。
わけのわからないキラキラと光る丸い石や牛乳瓶の蓋のコレクション。
放課後に遊んだ鬼ごっこや一輪車。
佳介が大切にしていた大きなビー玉。
何でもない話が延々と湧き出し、尽きることがなかった。

「もう20年になるねんな。」
懐かしい思い出に美冬は遠い目をする。
「真由美ちゃんは変わったよ。」
ぽつりと佳介が言った。
「うち?変わってへんよ?」
「・・・めっちゃ、綺麗になった。」
「・・・おおきに。」
美冬は少し照れて笑う。
その笑顔に佳介はしばらく見とれていた。
「・・・付きおうてる人、いてんの?」
「いてたらまだ芸妓なんかしてますかいな。」
ふふふと美冬は笑った。
「・・・よかったら、飯でも行かへんか?」
佳介は思い切って誘ってみた。
「へぇ、おおきに。」
美冬は自然にそう答えていた。
お茶屋の座敷で誘われた時のように。
佳介は瞬時にその凍りつくような雰囲気と拒否の壁を理解し、慌てて立ち上がった。
「ごめん!そんなつもりやなかったんや。」
佳介はそう言うと頭を下げて出て行こうとした。
生粋の京都人は『おおきに』の雰囲気と温度を一瞬にして感じ取る。
「けーちゃん。」
美冬がその背に声をかけた。
「うち、まだもらったビー玉、持ってるで。」
美冬の言葉に振り返った佳介は少し照れたように笑うと、もう一度頭を下げて玄関を後にした。

挨拶の手紙。
現在ではメールの方が便利だとか、経済的だとかスピーディだとか言われるが、美冬は葉書や手紙はとても大切なものだと思っていた。
お店やお稽古先は自粛で休みでも、普段の挨拶状はやはり手書きの葉書や手紙がいい。
例え季節の挨拶文であっても、相手の顔を思い浮かべながら書くと筆の動きも変わってくる。
それが相手の心に届く手紙だ。
「出した」ではなく、心に届かなければ意味がない。
日ごろの感謝を込めて挨拶を書くので返事はなくてもかまわない。
いつもありがとうございます。
元気に過ごしております。
一方通行だからこその心のやり取り。
お店や稽古先は休みでも、先生やお得意様に挨拶状を書いていた。
「お茶のランディ先生に長唄の三好先生。三味線の桜田先生に踊りの井上先生・・・。あとは大石理事長と早川専務理事と・・・。」
次々に机の上が葉書や手紙で覆いつくされてゆく。
2時間ほどしてようやく終わったところで時計は21時半を指していた。
本来ならばお座敷の最中の時間である。
コロナのおかげで今までにないゆったりとした時間を持てたことは、美冬の気持ちを柔らかくしていた。
「あ、切手買わな。」
ふと思い立ち、薄水色のカーディガンを羽織って玄関へ向かう。
「どっかいくの?」
母が歯を磨きながら台所から出てきた。
「切手買いにコンビニに行ってくるわ。」
「マスク忘れんときや。」
その母の言葉に慌てて玄関に置いてあった不織布マスクを箱から取り出して家を出た。

花冷えのする京都の夜。
もともと観光客の少ない洛北の下鴨は人影もまばらだ。
コロナ以前とそう変わらない、高級住宅地ならではのゆったりとした時間が流れていた。
表通りにあるコンビニに入ると外の闇から切り離されたように世界が変わった。
美冬はいつも、ついついスイーツのコーナーに吸い寄せられてしまう。
ふわふわロールケーキにゼリー、ティラミスにシュークリーム。
ほとんど見るだけなのだが十分に幸せな気持ちになれた。
舞妓時代には入ることのできなかったコンビニはキラキラな魅力にあふれている。
とりあえずざっと目を通してレジへと向かった。
学生らしき女性の店員が「いらっしゃいませ!」とマスク越しに笑顔をくれる。
「すみません、84円切手を56枚ほど欲しいんですが・・・。」
「え?5枚ですか?」
「すみません、56枚ほど。」
「ちょ、ちょっとお待ちください、数えますので!」
わたわたと切手シートを取り出して店員は必死に数え始めた。
慣れない手つきで数えているためか、しばらく時間がかかりそうだ。
「へぇ、珍しいな。」
美冬の後ろから男の声がした。
慌てて振り返ると佳介が佇んでいる。
店員の様子を見てニヤリと笑い、佳介はマスク越しに言った。
「何や、学生いじめたらあかんで。」
「いややわ、人聞きの悪いこと言わんといて。」
美冬は眉をひそめて言い返す。
そしてふと、佳介の手にプリンとカフェラテがあるのを見つけた。
「けーちゃんはこんな時間にプリン?」
「えぇやん。プリン、うまいぞ。」佳介は開き直って応える。
その時、店員が美冬に声をかけた。
「あのぉ、43枚しかないんですけど。」
「ほな、それ全部おくれやす。」
美冬の柔らかい声に店員は少しほっとしたようだった。

会計を済ませ家路についていると佳介が走って追いかけてきた。
「ちょっと疏水の桜、見に行かへんか?」
その声に美冬は無言のまま考える。
「嫌やったら無理言わへんけど。」
ガサリと佳介の持つコンビニの袋が音を立てた。
「プリンくれたらいいよ。」
「あ、・・・うん。」
佳介は一瞬固まった後、袋からプリンを取り出した。
「冗談どすがな。」
ふふふと笑って美冬は疎水へと足を向ける。
佳介もプリンを手にしたまま並んで歩きだした。

松ヶ崎疏水(通称:疏水)は、高野川の西岸にある松ヶ崎浄水場と植物園の南の区間で、賀茂川と結ぶ白川疎水通りに沿い約1キロにわたり流れている。
疏水沿いにはたくさんの桜が植樹されており、地元の人しか知らない桜スポットでもあった。
満開を過ぎたソメイヨシノはすでに散ってきていたが、それでもまだかなりの桜が咲いていた。
疏水沿いの道路には桜の花びらがたくさん散っており、街灯に照らされたそれはさながら白い大理石のようにも思える。
「久ぶりやけど、やっぱり綺麗やわ。」
桜の時期に実家に帰ることなどまずなかったため、もう20年ぶりだった。
「咲き始めもいいけど、今頃の方が俺は好きやねん。」
2人は無言でそぞろ歩き、橋の低い欄干に腰を下ろした。
「中学校の頃、一緒のクラスやった中川って覚えてる?」
「さっちゃん?」
「そうそう。医者と結婚したんやって。」
「へぇ。」
「あと、坂本は今度3人目と結婚するらしい。」
「あぁ、そうなんや。」
名前を聞くと懐かしい感じはするが、芸舞妓として過ごした年月の方が長くなった今、なんだか遠い世界の話のように聞こえた。
「すごいな、真由美ちゃんは。」
ふいに佳介が言う。
「何が?」
「自分の夢に向かって一直線。伝統芸能を体現する立派な芸妓はんやん。」
「けーちゃんかて立派な庭師はんやろ?」
「立派かどうかは知らんけど、今まで必死に勉強してきたわ。」
「そら、みんな同じどす。」
「ははは。そうかな。・・・でも、何となく今までとは違う感じやねん。」
佳介は少し眉をひそめた。
「コロナのこと?」
「うーん、それもそうやけど、何というか社会の流れというか、ものの考え方というか・・・。」
「へぇ。」
「今までとは違って大きく変わろうとしてる感じ。だから今までみたいに勉強してるだけやったら取り残されて、潰れてしまうんちゃうかなって。」
佳介は真剣な顔で話していた。
その顔を見て美冬は中学の卒業式のことを思い出す。
あの時も佳介は同じような顔をしていた。
「あんた、最後に会うた日のことを覚えてる?」
美冬の言葉に佳介はハッと我に返り、気まずい表情を浮かべた。
「覚えてる。」
3月の卒業式の日、佳介は美冬に告白をしたのだった。
「別の世界に行ったとしても俺はずっと待ってるからな。」
好きだとも、付き合ってほしいとも違う言葉。
お互いに淡い思いを持っていたが、違う世界での生活に追われ何時しかその思いも忘れてしまっていた。
「けーちゃんはあの時から変わってへんなぁ。」
美冬はくすっと笑った。
「俺は変わらん。」
佳介はそう言うとカフェラテにストローを突き刺した。
それからしばらくの間、2人は無言で桜を見上げていた。
音もなく散る桜は薄明かりの中でも美しい。
「さ、ぼちぼちお暇しますよって。」
「あ、送ってくわ。」
「かましまへん。」そう言って美冬は歩きだした。
「おい!・・・ほんまにプリンいらんのか?」
追いかけてくる佳介の声に笑いをこらえ、美冬は背中を向けたまま手を振った。

「何とご覧ください!ドラッグストアーの前には長蛇の列ができています。
みなさん、マスクを求めて朝早くから並んでおられます!」
女性のレポーターが絶叫していた。
テレビのワイドショーで見た映像は驚きの光景だった。
普段テレビは見ない美冬であったが、たまたま母がつけていたのを何となく眺めていたのだ。
先日トイレットペーパーが無くなるというデマの行列があったばかりのはずだったが、またしても行列を作って並ぶ人の姿は滑稽なようで切実でもあった。
「ひょっとして、うちの近所のドラッグストアーでも売り切れなん?」
母に聞いてみる。
「無いよ。」
コーヒーをすすりながら母はそっけなく答えた。
「えー。うち、予備買ってへんのに。」
「一箱あげるやん。」
「え?いいの?」
「いいよ。そこそこ買っといたから。」
「ありがとう。」
今は何とか凌げるかもしれない。
でも、このままずっと品薄が続くのだとしたら・・・。
何か替わりのものを探さないと。
「あ、そういえば、ガーゼのマスクって昔あったやんな?」
同じことを思っていたのか、母がそう聞いてきた。
「あ、そっか!自分でマスク作ればええんやん!」
美冬はそう言うとスマホでマスクの作り方を調べる。
「材料はガーゼでなくてもいいみたい。」
「それやったらあんたの浴衣会の浴衣、ようけ預かってるさかいにあれ使いよし。」
「それいいやん!」
浴衣会は芸舞妓らが浴衣姿で舞いや演奏を披露する会であり、2011年ごろから行われてきた。
毎年違うデザインの浴衣は長唄や清元さん等の提供で参加する芸舞妓に配られる。
美冬は毎年参加しており、その浴衣もかなりの数に上っていた。
それを実家に預けていたのだ。
こうして美冬のマスク作りが始まった。
その翌日、先輩の芸妓である先斗町の市華ねぇさんより電話があった。
電話でお互いの無事を喜んだ後、市華は美冬と同じようにマスクを作っているという。
京都市に寄贈するつもりとのことだった。
「出来上がりましたら市華ねぇさんの所に持って上がりますよって。」と美冬は言う。
「美冬ちゃん、ありがとうさん。うちらもちょっとは役に立ちたいやんかいさ。」
久しぶりに聞く市華ねぇさんの声は元気に満ち溢れていた。

その1週間後の4月21日。
美冬の携帯にたま居の女将であるおかあさんから電話がかかった。
「大石理事長が亡くならはった。コロナやさかいに葬式も身内だけで言ぅ話やさかいな。」
「はい。」
「財団もほんまは追悼式とか考えてはるんやろうけど、コロナでできるかどうかもわからんし、うちらにできることは悲しいけどなんもあらへん。」
「はい。」
「ほな、他にも電話しんならんよって堪忍え。」
「おかあさん、電話くれはってありがとうさんどす。」
電話を切った美冬はしばらく身動きすらできずにいた。
まさかという思いと、信じられないという思いが綯交ぜになり、ただ呆然とするしかできなかった。
美冬にとって、とても大きな存在。
すぐに理事長との思い出が蘇ってきた。

**********

その夜はお茶屋『近衛山』での座敷の後、たま居のおぶ屋『翠雲』に場所を移して盛り上がっていた。
大石理事長は非常に話し上手で人を楽しませるのがうまい。
一緒に飲んでいたIT企業の川内社長も終始笑顔であった。
すると、まだ11時過ぎにもかかわらず理事長は席を立った。
「ちょっと御不浄いってくるわ。美冬ちゃん、車呼んどいてくれるか。」
その言葉を聞いた川内社長が驚いた。
「理事長、まだいいじゃないですか。美冬ちゃん、ふく豆ちゃん、もう一軒行こうよ。」
「あほう。」
そう言って理事長は川内社長を見下ろした。
「日の変わらんうちに手仕舞すんのが遊び上手ゆうもんや。美冬ちゃん、頼むで。」
有無を言わさずトイレへと向かう。
美冬はおぶ屋のママである志保に車の手配を頼むと、理事長を見送るために表に出た。
雪こそ降りはしていないが吐く息は白く、京都独特の底冷えの寒さが身を包む。
しばらく待っていると理事長が一人で顔を見せた。
「もうじき来よるさかい、ちょっと待ったってや。」
「へぇ。」
「そう言えば美冬ちゃん襟替えやな。どうや、立方(たちかた)か地方(じかた)か決めたんか?」
「うちは・・・梅ひなちゃんみたいに華はありませんよって、地方にしようか思てます。」
美冬の言葉に理事長は長い息を吐いて、呟いた。
「勿体ないな。」
「え?」
「・・・えぇか。華のある子はいわゆるカリスマや。人目も引くし人気もある。けど、艶のある子は天性や。踊りには華もええが、艶のある子は少ない。美冬ちゃんにはそれがある。辛いし、大変やろうけど、両方頑張ってみぃ。」
その理事長の言葉に美冬は勇気を与えてもらった。

**********

それから踊りの立方と、三味線などの演奏をする地方の両方を人の何倍も努力して磨いてきたのだ。
美冬だけではない。
多くの芸舞妓は理事長から勇気と希望をもらっていた。
花街にとってとても大きく、大切な存在を亡くしてしまった。
夕暮れに染まる部屋で美冬は静かに涙した。

その後、4月24日においでやす財団は花街の芸舞妓254人に1人あたり10万円の助成金を各歌舞会に支給することを決めた。
そのすぐ3日後、先斗町の市華ねぇさんが京都市にマスクを寄贈。
京都市長にマスクを手渡す瞬間は京都新聞にも掲載されていた。
そして同日に『都の賑わい』京都五花街合同公演中止が発表された。
クライマックスに行われる『舞妓の賑わい』は五花街各4名が選ばれて20名が舞台で踊る。
その中には美春も含まれる予定であった。

 

5月

桜が終わり、藤の花が大原へ向かう道中の八瀬に咲き始めていた。
日本舞踊の『藤娘』という演目では藤の花をあしらった簪(かんざし)を付けて踊る。
また、5月に行われる葵祭は京都三大祭りの一つである。
お祭りの中でも美冬が一番好きなこの葵祭は神事のみ執り行うとのことで、3月末に行列中止の発表がなされていた。
5月3日に行われている流鏑馬神事も中止であったが、端午の節句に『ちまき』がないのはどうにも寂しいと母が言うので、美冬は母と2人で『道喜』さんへ向かっていた。
日中は少し汗ばむほどの陽気の中、並んで歩く母はいつになく浮かれているように見える。
「何かいいことあった?」
「真由美ちゃんとデートなんて久しぶりやん。」
「デートって、買いもんやん。」
「何なら手つなぐ?」
そう言うと母は美冬の腕に手を回した。
少し恥ずかしい気もするが、母の気分を大切にしたいので何も言わずにいた。
道喜では他に客もなく、この時期にしては珍しくすんなりとちまきを買うことができた。
ここのちまきは絶品で、もちもちとしていて程よい甘みがとても美味しいのだ。
「お昼、食べよう!」
お店を出てすぐに母は言った。
今までの時間を取り戻すかのような積極的な母に美冬は少しくすぐったい気もした。
道喜さんから北山通りを少し歩くと『進々堂』があった。
店内は落ち着いた雰囲気になっており、食事やお茶を楽しむことができる。
ここのパンは焼きたてのものを好きなだけ食べることができるのでいつも人気だった。
以前は席が空くのを待つお客さんもあったが、今はかなり空いていた。
母はミネストローネ、美冬は野菜とハムのキッシュプレートを注文してゆったりと寛ぐ。
中学の頃は弟の信二(しんじ)と母と3人で出かけた記憶はあるが、こうして母と2人だけで外食するなんて初めてかもしれない。
コロナによっていろんな小さなことが積み重なり、初めてのことばかりが増えた。
今までになかったことが少しずつ当たり前に変わってゆく。
それもすべての人に平等に。
「信二は元気?」
美冬は何となく訪ねた。
「かなり忙しいみたい。」
「あー、医者って大変そうやね。」
「診療所とかは暇みたいやけど、信二の勤めてる病院はコロナ対策で業務が倍以上になってるんやて。」
「そうなんや。」
「ホテルに着替え持って行ったりしてんねんけど、フロントに預けるだけやし。たんまにLINE来たら『疲れた。疲れた。』ゆうてるわ。」
弟の信二は家族の中でたった一人、医者になった。
医者になった理由は聞いたことがない。
ただ、父の自慢の息子であることは疑いようがなかった。
美冬とは違って。

まもなく料理が運ばれてきた。
野菜を大きめにカットしたミネストローネは母の好物だ。
特にライ麦系のパンを浸して食べるととても美味しい。
美冬のキッシュはあっさりとした塩味で、ほうれん草の香りが印象的だ。
こちらはちょっと濃いめのバターロールととても合う。
空いていたこともあり、ゆったりと食事を楽しむことができた。
そして食後のコーヒーを飲んでいると母が突然切り出した。
「なぁ、うちに帰ってこうへん?」
どうやらこれが本題だったらしい。
「帰ってきてるやん、今。」
「そぅやのうて。」
「お店始まったら帰りも遅なるし、それに妹の舞妓やらが来たりもしてるし・・・。」
美冬は逃げていた。
「なぁ。・・・お父さんやったら怒ってはらへんよ?」
「わかってる。」
「わかってへん。」
「わかってるって!」
美冬のきつい口調に母は黙り込んでしまった。
父とのことになるとついイラっとしてしまう。
家に帰るのに父の顔色を伺う必要があるのなら帰るつもりはなかった。
いや、そもそもあの家は父のものだ。
反対を押し切って出て行った自分は、あの家にはいない方がいい。
「ちょっと、1回、考えてみてな。」
母はそう言うとデザートを美冬の方に差し出した。
「・・・いいのん?」
「ラズベリーのムース、あんた好きやろ。」
「うん。」
「覚えてる?あんた、おじいちゃんにラズベリーのムース食べたいて言ぅたかさい、おじいちゃん15個も買うてきはって、あんたそれ、一人で食べたんやで。」
「あの後、もうお腹いっぱいでご飯食べられへんで、めっちゃ怒られたん覚えてるわ。」
ふふふと2人で思い出し笑いをする。
「・・・おじいちゃん亡くなってもう、10年になるねんな。」
「そうやなぁ。早いなぁ。」
それからしばらく母とおじいちゃんの思い出話に花を咲かせた。

進々堂を出てから家に向かって歩いていると、佳介が梯子を担いで角を曲がってきた。
「あら、けーちゃんやないの!」
「あ、真由美ちゃんのお母さん、こんにちは。」
佳介はタオルで汗をぬぐった。
「どないしたん。」
「いや、そこの鈴木さんちの庭を整え終わったところですわ。」
「あ、そうそう、あんたこの間、ハサミうちに忘れて帰ったやろ?」
「あー!あの小さめの枝切り。探してたんですわ。」
「今から取りに来る?」
「え?ええんですか?」
「ほな、真由美。あんた渡しといてんか。お母さんクリーニング取りに行ってから帰るさかい。」
そう母は言うと、佳介の肩をバシッと叩いて歩き出した。
あまりの成り行きに2人は呆然とする。
「え、ええのん?」
「ええよ。」
美冬は呆れながら答えた。

『けーちゃんに冷たいお茶と、虎屋のようかん出したげて』
家に着いた頃、母からLINEのメッセージが届く。
「あー、お母さんがお茶出したげてって。リビングで待っててくれる?」
「あ、いや、ええよ?別に・・・。」
「ええから。気ぃ使わんでよろし。」
「ほな。」
佳介は靴を脱いで上がった。
佳介にとっては昔からよく来ている、勝手知ったる家だ。
美冬がリビングに行くと、佳介は窓越しに庭をじっと眺めていた。
テーブルの向かいに腰を下ろし、お茶と羊羹を置く。
それでも佳介は身じろぎもせずに庭を眺めていた。
幅10メートル、奥行き3メートルほどの裏庭に、もみじと6つ程の大小の石。
そしてコケやシダなどの下生えがあるだけだ。
「あの紅葉な。今は青い葉が茂ってるけど、冬、全部落ちて枝だけになるやろ。そこに雪が積もると木全体に白い花が咲いてるみたいで、その雪の姿が物凄く綺麗なんや。このリビングから見るのが一番ええ。」
ゆっくりと佳介が言う。
「へぇー、そうなんや。」
「そうなるように庭を整えろて、じいちゃんから言われてた。」
そう言うと佳介はお茶を口に含んだ。
「おおきに。うまいわ。」
虎屋の紅茶羊羹を大事そうに少し齧ってから、思いついたように佳介は言った。
「そや、この庭の歴史、聞いてるやろ?」
「はぁ?歴史?」
「なんや、聞いてへんのかいな。」
「何の話よ?」
「大原の北村石材って知ってるか?」
「あのモアイ像のあるとこ?」
「そや。」
そう言ってから佳介は羊羹を再び少し齧って話し出した。
「昔、俺のじいちゃんが北村石材である石を見つけた。
その石に惚れ込んでどうしても手に入れたかったんやけど、お金が足りずに困っとった。
方々に頼んでみたが、『石に金を払うやなんて』と相手にされへんかったそうや。
ある時、当時町長やった平岡さん(真由美ちゃんのおじいさんな)がどこで聞いたんかその石を見てみたいと言ぅたそうや。
そしてその石を見て惚れ込んだのかどうなんか、ともかく助けてくれることになったらしい。
その代わり、その石はこの庭においてくれゆうことやった。
それから俺のじいさんは感謝して、ずっと無償でこの庭を整えてきたんや。
最初は手に入れた大きな石を中心にして、その周りに2つの石を置いた。
石は家族一人一人の分身やった。
真由美ちゃんのおじいさん、おばあさん、そしてお父さんや。
その後、お母さんの佑子さん、真由美ちゃん、弟の信二君が増える度に石を一つずつ増やし、その都度に庭を作り替えたんや。
今の庭の形になって33年。親父から俺が受け継いで整えさしてもうてる。」
佳介の言うように、この庭が平岡家の歴史そのものだった。
石や草木の配置、それぞれの石の色合いや形はリビングから眺めた時、一番美しくなるように計算されているのだという。
日が差したときに下から見上げると、立体的な紅葉の枝や葉の重なりによって緑に濃淡が生まれ、柔らかな美しさを醸し出す。
何気なく何十年と見てきたこの庭が、こんなにも完成されていたことに驚きを覚えた。
そして愛情が確かに感じられることに感動した。
つい先程、母と話したばかりのおじいちゃんとの思い出が一気に鮮明に蘇ってくる。
この庭で一緒に桜餅を食べたこと。
じっと雪が降る様を2人で見つめていたこと。
こんなにも愛情を注がれていたのを美冬は初めて知った。
「話してくれてありがとう。初めて聞いたわ。」
「そ、そうか。俺が伝えてよかったんかな。」
「うん。よかった。感動した。」
それからしばらく、2人は黙って庭を見つめていた。
「けーちゃん。」
「ん?」
「ほんまに、おおきに。」
「あ、うん。」
その後、佳介が鋏をもって家を出るまで、ついに母は帰ってくることはなかった。

ピロン。美冬のスマホのLINEメッセージ着信音が鳴る。
たま居の小母である志保からだった。

志保:今、何してるん?
美冬:寝るとこ
志保:まだ9時前やんかいさ!
美冬:それが何?
志保:これから会えへん?
美冬:いいよ。うち来る?
志保:あんた、実家ちゃうのん?
美冬:いいよ。別に。
志保:ほな、行くわ

そんなやり取りの後、志保は30分程してやってきた。
黒をベースにしたジャケットは片方の白い襟が大きく、袖周りにはシャネルの大きな金色のボタンがついている。
それに合わせた黒のロングスカートには長めのスリットが入っていて、歩けばチラリとふくらはぎを見せた。
ピンク色のマニキュアにはスワロフスキーのデコレートがなされている。
エレガントな雰囲気をこれでもかと見せつけるような姿であったが、一方の美冬はピンク色のフリースパジャマだ。
「あんた、ほんまに寝る気やったんや。」
呆れる志保が美冬の隣に座るとディオールの香水の香りがふわりと広がった。
「だって、今日大掃除してたから疲れたんやもん。」
そんなやり取りをしていると突然部屋のドアが開けられ、美冬の母がお盆にブランデーやチェイサー、氷におつまみである九条ネギの白みそ辛し和えなどまで用意して入ってきた。
「おぶ屋バー、平岡へようこそ!」
にこやかに迎える母に美冬は慌てて声を上げた。
「ちょっとお母さん!何してんの!恥ずかしっ。やめて、志保はほんまにおぶ屋さんのママなんやから!」
「あらそう?」
しかし母は構わず志保に話しかける。
「いぇね、この子がうちに友達連れてくるなんて初めてなもんで、もう嬉しくて!」
「お母さん、もういいから!」
「はいはい、じゃ、ごゆっくり。泊って行ってもいいわよ。」
ほほほと母は笑って去っていった。
「めちゃカワイイお母さんやな。」
くくくと笑いながら志保は言う。
「もう、信じられへん。」
美冬の顔は真っ赤だ。
「まぁまぁ、一杯どうどす?」
志保はグラスに氷を入れながら微笑んだ。

志保と美冬は同じ年代でもあったため、置屋では特に仲が良かった。
難しい年ごろの2人で『絶対に舞妓にはならない』と反発する志保に対し、『何が何でも舞妓になる』という美冬は度々喧嘩をしたこともある。
ただ何度もぶつかりあう内にお互いを理解し、認め合うようになってからは殆ど喧嘩をすることもなかった。
そして、10年ほど前に起きた『たま居』の黒歴史とも言うべき、伝説の芸妓『佳つ美』の引退劇の後、二人は頭角を現し始める。
地に落ちた『たま居』の名を上げるため、美冬は個人の人気に頼らないブランド戦略を進める一方、志保は今までにない企業とのコラボ事業を手掛けた。
その後も様々な事柄を志保は経営面から、美冬は接客面から二人で力を合わせて乗り越えてきた。
置屋『たま居』の中で二人は他の芸舞妓とは違う絆を築いていた。
もちろんそれを中傷する声もあったが、『たま居』の名前が上がってゆくに連れそれも聞こえなくなった。

しばらく2人で近況報告をしながら飲んでいたが、次第に口数は少なくなる。
「で、どうしたん。」
美冬は切り出した。
志保は煮詰まった時、必ずこうして背中を押してもらいに甘えて来る。
「んー、うち、もうわからへん。」
しかし、ため息交じりの言葉は今までに聞いたことがないものだった。
「何が?」
美冬は聞いてみる。
「営業自粛で踊りも中止。ビアガーデンも、何もかんもあらへん。いったいどうやって支払いしろって言うんよ!大体、何?財団が10万円の助成金を払ったって置屋には一銭も入らへん。それやのに普段から儲けてる芸舞妓だけ何で10万円もらえんのってSNSで炎上されても知るか!うちらかて舞妓の稽古代やら着物の費用だけで何ぼかかる思てんのん!」
志保は一気に思いの丈をぶちまけた。
普段から毒は吐くものの、愚痴を吐くのは『佳つ美』事件以来だ。
しばらく美冬は黙っていた。
もちろん、志保も吐き出したことで冷静さを取り戻していた。
「今は売り上げを作れへん。でも、できることはあるんとちゃう?」
美冬は今まで考えていたことを話し出す時だと判断した。
「何やねんな。」
志保はまだピンと来てはいないようだ。
「まずはご贔屓さんに元気になってもらうこと。今はみんな大変やし、社長さんらかてあんたみたいになってるはずや。だから、まずは冷静になって元気になってもらうこと。」
「元気に?」
「そうやんか。困って張る時こそ元気をあげな。挨拶状と一緒に何かプレゼントしたらええやん。」
「そういえば、舞妓グッズ余ってるわ。」
「それに千社札張って送ってあげたら喜ぶんとちゃう?あ、それにうち、マスクを浴衣会の浴衣で作ってるさかい、それも一緒に送ったら?」
「ええやん!」
志保の瞳に光が蘇ってきていた。
「あと、贔屓の子にメッセージを書いてもろたら?」
「実家で書いてFAXしてもらうわ。」
「他には何かある?」
しばらく考えた後に志保は言う。
「社員さんへのメッセージはどう?」
「いいやん。おかあさんから、『大変な時なので心から応援しています。一緒に頑張りましょう』って感じがええわ。」
「うん。おかあはんにゆっとく。」
「あとたま居の格をもう一段上げるのに、VIPルームを作ったら?そこで一日一組限定で冷泉さんやら奥様方にオリジナルメニューのフレンチを舞妓の給仕で楽しんでもらうとか。」
「それ、めっちゃいいわ。お茶の先生とかも呼んでもいいわ。でも、舞妓はめちゃめちゃ緊張するで。」
「そんな機会、滅多にないからええんやんか!ちゃんとうちら芸妓もフォローするし。うちの格は絶対に上がるやん。」
「まぁ、そうやけどなぁ。」
「そうやな、和食の『大東』さんのお店が人気やん。予約も半年以上先やないと取れへんし。その大東さんに和食やけどフレンチのテイストのものを用意してもらうとか。」
「あ、大東さんやったら、おかあさんの妹さんの娘さんが嫁いではるわ。頼んでみる。」
志保はそう言いながら携帯を取り出してメモをした。
「でも、多分それやと採算が取れへんやろうから、お昼の空いてる座敷で踊りの観賞会とかしてもええんちゃう?」
「それやと舞妓の接待が大変やわ。」
「食事は無しにしたらええやん。その分、お土産つけて。」
美冬は即座に思いつく。
「あー、なるほど。」
「ほら、春の踊りの会みたいにチケットを先にお願いして。」
「贔屓さんに頼むんやな。まかしとき!」
「あと、おぶ屋もお昼は空いてるやん?月一でええから一見さん相手に『お茶屋遊び講座』とか。」
「新規顧客ゆうてもなぁ。」
志保は空いたグラスにお代わりを作りながら眉をひそめた。
一見さんを相手にすることで敷居は下がるが格も下がる。
「今までとは違う形で新しい贔屓さんも考えてみる機会とちゃう?」
「おかあはんは渋るやろなぁ。そやから、まずはフレンチで格を上げんのが優先やんな。」
「あと、透明のアクリル板でお客さん一人用ずつの仕切りも作らんと。」
「テーブルの上にのせるやつな?」
「座敷やったら、テーブルやなしに小さいお膳にする時もあるやん。そやし、畳に直接置くぐらいの大きいのもいるんとちゃう?」
「テレビでやってたけど、ビニールカーテンは?」
「和室の天井にカーテンレールやなんてできますかいな!それに不細工やし、安けないし。」
「うわ、その口ぶりはおかあはんそっくり。」
「伊達に20年、あんたと一緒にいてまへんえ。」
「すんまへん。」
志保は美冬のグラスに氷を入れながら頭を下げた。
「あと、多分うちらはマスクなんてつけてられへんやろうし、お客さんとしゃべるのも距離がいるさかい1回の座敷で4、5人までやろなぁ。」
「あー。団体は無理やわな。」
「あと、宴会への出張も無理。」
「うわー。」
「ご飯食べも多分無理。」
「えー。」
「おぶ屋もカウンターをアクリルで仕切らんと。」
「なんぼかかる思てんのん!」
頭を抱える志保。
美冬はため息をついて志保の手を取った。
「今はみんな大変。でも、これがスタンダードになるんやったら何とかして乗り切る工夫をしんならん。・・・うちも力になるさかい。な?」
「ありがとう。」
「とりあえず、できることからやろう!」
「うん。」
しばらく無言で二人はグラスを傾けた。
「・・・お父さん、ええ人やで。」
ポツリと志保は言う。
「何?急に。」
「あんたが実家で暮らしてるから言うけどな。あんたのお父さん、毎年、あんたのこと聞きにうちのおぶ屋に来てはったんやで。」
「え?」
美冬は志保の言葉に驚きを隠せなかった。
「『うちのは頑張ってますか?迷惑をかけてませんか?』言うて、うちに聞いてはったんやで。」
「なんでゆうてくれへんかったん?」
「そら、黙っといてって頭下げてはるからやないの。」
「えー。」
「今まで帰ってへんかった分、孝行してあげなあかんよ。」
「・・・そんな急に言われても。」
ふぅ、と美冬はため息をついた。
結局、敬遠していたのは自分の方だったのだ。
謝ることもせず、話そうともせず、それでも父は気にかけてくれていた。
「あんた、うちの好物の鯛ちらしのこと、話したやろ?」
美冬は鎌をかけた。
「なんや、バレたか。」
志保は舌をペロリと出した。
だから父は帰ってくる日のためにわざわざ注文をしてくれたのだ。
「これも、コロナのおかげやな?」
志保はグラスを持ち上げる。
もう一度ため息をついた後、美冬もグラスを持ち上げた。
「悪いことばっかりやおへんな。」
そう言うと、2人はカチンとグラスを合わせた。

その数日後、志保より営業再開の一報を受け、美冬は実家に戻ることを決めた。
父に報告をしたが、「そうか。」とだけで他には何も言われなかった。
母によると、とても喜んでいたらしい。
引っ越し業者はかなり予約が多かったので、こつこつと荷物を運びマンションを引き払った。
5月中頃、世間が待ち望んでいた10万円給付金の受付が始まった。
全国民に10万円を支払うという今までに例のない政策は、各所に混乱を招いていた。
そんなある夜、美冬のLINEに佳介からメッセージが届いた。
近くの疏水にホタルが出たので見に行かないかという。
美冬は少し考えた後、わかったと返事をした。

「けーちゃん。」
呼ばれた方に佳介が振り向くと、美冬が浴衣姿で歩いてきた。
髪は京都巻きでシニヨンにまとめている。
「おう。浴衣か。」
「どうどす?」
「あ、うん。キレイ。」
初めて見た美冬の浴衣姿はあまりにも艶っぽく、佳介は言葉をなくしていた。
「なんや、気のない返事どすな。」
「ごめん。あ、いや、そうやなくて。」
「もうよろし。ほな行くぇ。」
美冬は洛北高校の角を曲がり、疏水縁を歩き出した。
春の桜を見に来た時とは違い、薄闇の中に淡い緑の光が漂っているのが見える。
哲学の道のような山手とは違い、住宅街の中を流れる小川に蛍が出るのは京都市内でも珍しい。
音もなくゆっくりと明滅を繰り返し、目と鼻の先を光が動いてゆくのはとても幻想的な光景だった。
どちらともなく立ち止まり、息を潜め無言でその光を眺める。
しばらくして光はふらふらと川面に降りていった。
「真由美ちゃん。ありがとうさんやで。」
「え?なに?」
「俺、新しい道が見えたんや。この間、真由美ちゃんちの庭の話をしたやろ?その時、初めて聞いて感動したって言ってくれたやん。」
「うん。」
「それで俺、わかってん。真由美ちゃんと同じで、庭のことを知らん人にも話すべきやって。綺麗な庭を作るだけやのうて、きちんと技術とか思いも説明しなあかんて。でないと解ってもらえへんって。ちょっとでも理解出来たら、そしたらもっと楽しくなって、いろいろ見たくなったり知りたくなったりするやろ?だから、うちが手掛けてる庭のこと、ネットで紹介していくことにしたんや。今迄みたいに、勉強だけしてたらええいう時代やない。今までにないこと、今までとは違うことして変わっていかんとあかんて。」
熱心に話す佳介の顔は暗くて見えなかったが、それ故にその熱が美冬の心に伝わってきた。
「今日は来てくれてありがとう。どうしてもお礼が言いたかったんや。」
「うちは何にもしてへんよ。」
「ほんまに、おおきに。」
手を伸ばせばすぐに指を絡ませられる距離にありながらも、2人はじっと動かずにホタルを見つめていた。

 

6月

京都市内のお茶屋・置屋は6月1日より営業を再開した。
再開に向けてのガイドラインは五花街でつくる「京都花街組合連合会」がまとめ、5月29日の会合で了承した。
美冬たちの想像通りお茶屋などの宴席では換気を徹底し、客同士ならびに芸舞妓の間隔を1~2メートル確保。
芸舞妓にマスクの着用はなく、お酌の際に会話は控えることとなった。
返杯や回し飲みはせず、杯洗(やりとりする杯を洗う器)も使用しない。
おもてなしを「主に歓談と芸事の披露」と定義。
衝立越しにジェスチャーでじゃんけん遊びをする「とらとら」や、軽妙な歌のリズムに乗せた「金比羅船々(こんぴらふねふね)」など、宴席を盛り上げる「お座敷遊び」については行わないという。
また、料亭やホテルへの芸舞妓の派遣は、主催者が出席者全員の身元を把握していることを条件とした。
客との「ご飯食べ」(食事会)についても、原則的にお茶屋か花街関係者が経営する店に限定することとした。
北海道、首都圏からの客の受け入れは当面見合わせる。
連合会の門田会長(祇園甲部)は「健康を最優先に考え、感染拡大防止策を徹底する。これまで通りのおもてなしを今すぐはできないが、今できる最大限のことから始めたい」と話した。
自粛ムードの中、お客様の予約がゼロである日も珍しくはなかった。
そして6月10日。
例年では10月から11月にかけて花街で行われる秋の踊りの会はすべて中止と発表された。

「このまま行ったら中止やな。」
たま居のおぶ屋『翠雲』のカウンターでグラスを傾けていた客が言った。
カウンターは透明のアクリル板で仕切られ、まるでキープしてあるボトルのように所々に千社札が張られていた。
「今年は何もかもが中止どすし、何のことどすのん?」
美冬はそう言いながらカウンターの内側からアクリル板を少し開け、小松菜とお揚げさんの炊いたんが入った小鉢を客の前に置いた。
「送り火やがな。」
「そうどしたか。」
「この間、保存会の理事長と話したんやけど、難しいてゆうとったわ。この分やと『六道さん』も難しいんとちゃうか。」
「まぁ、・・・ゆうても詮無いことどすしなぁ。今年はどこも無理と違いますか。」
ふと美冬は佳介のことを思い出した。
確か毎年、送り火の『妙』の保存会で世話役をしていたはずだ。

その翌日、美冬は佳介に電話をした。
「送り火、難しそうやって?」
「ああ。理事長の神崎さんが、『無理に実施して観光客からクラスターが出たら責任持てん』て
な。それに、うちの会はメンバーが自分で薪を用意して山の上まで持って上がらんならん。地方から帰省した子供やら孫が今までは運んでたんやけど、今年はコロナで帰省せんゆうて、それもでけん。今、必死で保存会のメンバーの家回ってるんやけど、渋い声ばっかりやわ。」
「大変やなぁ。」
「でも、絶対に諦めるわけにはいかん。初盆を迎える人もようけいてはるし、お精霊(しょらい)さんと送り火は、京都人の心の拠り所や。これからもう一回、薪は俺が運ぶから何とか考え直してくれ言ぅて1軒1軒、説得に回るわ。」
それを聞いた美冬は、きっとそれだけでは難しいであろうことを予見した。
「けーちゃん、うちも手伝うわ。」
「え?ええよ。これは俺が・・・」
「ちゃう。あんたのやり方だけではあかんの。」
「なんでやねん。」
「とにかく、保存会の奥さんの情報を集めて。好きなもんとか、子供ができたとか、手術したとか、片っ端から全部やで。今日は用事あるけど、明日あんたのとこ行くさかい。それまで動いたらあかんよ。わかった?」
「あ、おう。わかった。」
佳介は戸惑いながらも返事をした。

その翌日。
「北山通りの近藤さんの奥さんは、この間ステンドグラスの展示会で賞もらわはったんやて。ご主人と仏具屋さんしてはってな。子供さんはもう独立してはる。うちの3軒隣りの永井さんは中学校の先生。奥さんは半年ほど前に西陣の織屋さんを退職しはった人や。趣味はガーデニング。あと岩田さんは代々の農家。三条の方にあるイタリアンレストランとかに野菜を卸してはる。奥さんは水泳選手やったんやて。料理がうまいらしいんやわ。・・・なぁ、ほんまにこんなんでええんか?」
佳介は保存会のメンバー表を見ながら美冬に言った。
「ええから、続けて。」
美冬は熱心に細々としたメモを書いている。
さらに18人程のメンバーの説明を佳介から聞き、メモを睨みながら考えていた。
「こんなん、役に立つんか?」
たまりかねて佳介が問う。
「けーちゃん、保存会の運営してるんはご主人方やろうけど、裏方を支えてんのは奥さん方や。当日だけやのうて準備の時のご飯の用意やら、清掃の後片付け、送り火の後の慰労会の準備とか細々としたことを全部やってんにゃで。男は理屈で動くけど、女は共感。奥さん方の協力がないと何も動かへんのよ。」
「そんなもんか?」
「そんなもん。」
「あと、理事長の神崎さんやけどな・・・。」
「うん。」
「奥さんが去年亡くならはって、じいさんとばあさん、小学校3年の娘さんとで暮らしてはる。初盆やさかいな。ほんまは、一番きちんと送ってあげたいはずなんや。」
「そっか。」
それからしばらく美冬はリストやメモに目を通しては何やら呟いていた。
「けーちゃん。これから言うもん用意してくれる?トラパニの塩と和傘、栗のはちみつ、玉井パンのクリームパン。それから・・・。」
「ちょ、ちょっと待って!トラ・・・何?」
「あーもう。そしたらメモに書いとくし。残りはうちが用意するさかい。」
「お、おおきに。」
「ほな、明日の11時にここに来るさかい、3時まで回れるだけ回ろう。」
「え?俺一人で行くよ?」
「もちろん、あんたは来なあかん。けど、うちも一緒に行くさかい。」
「ええよ、そんなん。」
佳介は何か勘違いをしているようだ。
自分が信頼されていないと思っているのかもしれない。
そこで美冬は一歩踏み込んだ。
「んじゃ、誰にどうやって何を渡すかわかってる?」
「・・・。」
「ほな、明日。」
「・・・はい。」

それから10日間、2人は保存会のメンバーの家を駆けずり回った。
美冬は心からいろんな人の話を聞き、時にはおばあさんの話相手になり、時には料理のレシピを教え、そして時には芸妓『美冬』として舞妓グッズを届けたりと、一生懸命に動いた。
美冬の熱意は奥さん方にも伝わり、それが小さな波を生み出す。
もちろん佳介の熱意もあり、1軒ずつ時間をかけながら賛成を取り纏めることができた。
そして最後の関門である理事長の家で2人は話をしていた。
「三宅さん、岩田さん、中村さんをはじめ、理事の方も保存会のメンバーの方も『規模縮小なら』ということで認めてもらえました。」
佳介は理事長にそう報告をした。
ふぅ、と理事長は深いため息をついた。
「佳介君、ありがとうな。」
しみじみと、また少し疲れた声で理事長は言った。
「大文字や他の保存会にも話をして、何とかできるように掛け合うてみるさかい。」
その言葉に美冬と佳介は少し涙ぐんでしまった。
「ありがとうございます。」
理事長は2人と少し打ち合わせをした後、わざわざ玄関まで見送りに出てきてくれた。
「佳介君。」
「はい。」
「この人を大事にせんといかんで。」
「え?彼女は幼馴染で・・・。」
「ええから。」
慌てる佳介の肩に手を置き、理事長は美冬に頭を下げた。
「こいつを頼んます。」
美冬は苦笑しつつも、頭を下げることしかできなかった。

6月24日。
お盆を前に先祖の霊を迎える『六道参り』で有名な六道珍皇寺は、例年通りのお盆行事を中止することを発表した。
故人の名を記した水塔婆の申し込みはインターネットで受け付け寺で回向。
精霊が宿るとされるコウヤマキの枝もネットで申し込んだ人に宅配で送ることになった。
ただ初盆を迎える家については「精霊が初めての里帰りで迷わないように必ず六道珍皇寺にお参りする」との習わしがあることから、初盆の新仏を迎える家に限って参拝を受け付けることになった。
先祖の霊を呼び戻す『迎え鐘』を突いて水塔婆を納めた後、高野槙を自宅に持って帰って先祖の霊を迎えるのが習わしだ。
毎年、五条坂で行われる陶器祭りと同じ8月7~10日に行われ、期間中は迎え鐘の前などに数百メートルの行列ができる。
炎天下での行列は毎年大変だったが、京都人の中にそれを嫌がるものは誰一人としていない。
この中止を受け、京都人の間に『送り火も中止になる可能性が高い』という感覚が芽生える。
それほど『六道参り』と『送り火』はワンセットのお盆行事と認識されていた。

そしてその3日後。
6月27日に『送り火』は規模縮小ながらも何とか開催すると発表された。
大の字は6つの明かり火を点火。
船、左大文字は1つ。鳥居は2つ。
そして妙法はそれぞれ1つずつ点火を行うことになった。
京都の夏はこの送り火で締めくくられる。
この発表に多くの京都人は安堵した。
「美冬さん、ちょっとよろしやろか。」
この日、三味線の師匠から電話があった。
「歌舞伎の時之助さんが地方(じかた)の人を探してはってな。美冬ちゃんのことを話したら稽古で弾いてもらいたい言わはんのんや。大丈夫か?」
「ほんまどすか!お願いします!」
歌舞伎役者との練習など願っても叶うものではない。
師匠が美冬を押してくれたことにとても感謝するとともに、自分の演奏が認めてもらえたことがとても嬉しかった。
苦労して地方の修行をしてきた甲斐がある。
その夜は嬉しくてなかなか眠ることができなかった。

数日後、美冬の携帯に佳介からお礼の連絡があった。
今回の協力のお礼がしたいというのだ。
そこで一度行ってみたかった『右近太郎』というお店を予約してほしいと頼んだ。
美冬の先輩芸妓が嫁いで女将となっているため、ご飯食べもこの店なら許される。
その前におぶ屋『翠雲』で待ち合わせることにした。
現在改修中の祇園甲部歌舞練場の近くにあり、たま居の芸舞妓と話すことのできるバーだ。
表札などもなく看板も掲げていないため、通りすがりの一般人は絶対に入ってくることはない。
だた表には掌に乗るほどの大きさの、エメラルドのように美しい翠色の白磁で作られた竜が吊り下げられていた。

「あの、平岡さんから言われてきました三村ですが。」
佳介は恐る恐る翠雲の扉を開けた。
「お越しやす。」
ママである志保がカウンターの一角に案内する。
京都人と言えどお茶屋やおぶ屋に出入りする者はほとんどない。
もちろん佳介も初めてなので、正直なところドキドキしていた。
「真由美はちょっと遅れてくるさかい、ちょっと座って飲んでてゆうてましたわ。」
「すみません。僕は飲めませんので、ウーロン茶でもよろしいですか?」
その言葉に志保は小声で佳介に言った。
「あの子のボトルがあるさかい、気にせんでもええよ。」
「すんません。ほんまに飲めへんのですわ。」
顔を真っ赤にして言う佳介に志保はふふふと笑う。
佳介は少し座りなおしてお店を見回した。
葉巻をゆったりと燻らせる男性が2人カウンターの端にいる他は客の姿はなかった。
しっとりとした土壁に一輪挿しの花瓶がかけられており、大きな白い花が咲いていた。
「タイサンボクですね?」
ウーロン茶を持ってきた志保に尋ねる。
「よう、わからはりますなぁ。」
「木蓮は花が大きいさかい、すぐにわかります。」
「優しい香りがええ感じどっしゃろ?」
冷たいグラスに口をつけて佳介は言った。
「ええ。そうですね。」
「お花屋さんどすか?」
「いえ、庭師の勉強をさしてもろてます。」
「あら、失礼いたしました。」
「お気になさらずに。」
志保はにこりと笑いかけ、カウンターの中へと戻ってゆく。
花の話ができたことで少しずつ緊張が解けてゆき、佳介はこの雰囲気をゆったりと楽しむことができた。

しばらくして扉が開き、艶やかな着物を着た白塗りの芸妓が入ってくる。
「お!美冬ちゃん、久しぶりやな!」
葉巻を吸っていた男性の一人が声をかけた。
「あら、三上はん。平川はん。お久しゅう。」
「新しボトル入れるさかい、こっちこっち。」
そう言って空いている席に手招きをする。
「すんまへん。今日は先約がありますよって。」
にこやかに笑い、美冬は佳介の横へ行き頭を下げた。
「えらいすんまへんどす。お待っとうさんどした。」
「真由美ちゃん?」
佳介は小声で尋ねた。
「ほな、行きまひょ。」
美冬は佳介の手を取ると志保に軽く頷いた。
志保もそれに応えて手を上げると2人は翠雲を後にした。
「えらい、ご執心やな。」
三上と呼ばれた男がぼそりと志保に告げる。
「そうどすか?三上はんと出かける時もあんな感じどっせ?」
「そ、そうかいな?」
「美冬はいつでも一生懸命やさかいなぁ。」
志保はそう言うと、ふふふと楽しそうに笑った。

「おい、芸妓の恰好てどういうことやねん。」
店を出た途端に佳介は慌てて美冬に尋ねた。
「ちょっと遅なったさかい、飛んできたんやないの。」
「そやかて、俺、花代やら言われても・・・。」
「心配しなはんな。座敷から上がったら着物きて化粧してても花代なんか取らしまへん。」
「そうなんか?」
「そうどす。それより予約は何時どすのん?」
「あ、えっと、7時。」
「ほな、ちょっと急がな。走るえ!」
「え?その恰好でかいな!」
美冬は佳介の手を取ると器用に着物の裾を片手に走り出した。
佳介は心配で何度もなんども美冬を横目にするが、当の美冬は気にした風もなく走り続けていた。
店先まで来るとさすがに息が上がっていたため、立ち止まって荒い息をつく。
ふふふふ。
あははははは。
2人はどちらともなく笑いだしていた。
「こんなん、舞妓の頃以来や。たま居のおかあさんに見られたら、間違いのう怒られるわ。」
「舞妓の時は走ってたんかいな。」
「稽古に挨拶回りにお座敷に言ぅて、時間の使い方も知らへんさかいな。」
「へぇ~。俺は今でもしょっちゅう走り回ってるけどな。」
「気張って頭領になりよし。ほんなら走らんでも済むやろ?」
「はいはい。」
「ほな、入ろか。」

打ち水に淡い光で照らし出される石畳の奥に『右近太郎』はある。
昔ながらの土壁の玄関を上がるとすぐに二階への階段があった。
その二階の一角に、狭い座敷の部屋がある。
2人で座るには丁度。
そして親密な時間を過ごすにはもってこいの落ち着いた空間であった。
「ウーロン茶と、ビール?」
美冬は尋ねた。
「あ、ウーロン茶2つ。」
佳介はそう言って、温かいタオルで手をふく。
その後すぐにお料理が運ばれ始めた。
初夏の鱧やイサキのお造りをはじめ、椀物、焼き物からデザートまで8品のメニューはそれぞれに工夫がなされ、創作料理の楽しみを感じさせてくれた。
「おかげで何とか送り火を開催できそうや。ほんまに、ありがとう。」
佳介は頭を下げた。
「お互いさまやがな。毎年、綺麗な送り火を見せてもうてるさかい。」
正直なところ、佳介は美冬の芸妓姿に少し引いていた。
あまりの世界の違いに気遅れしているのかもしれない。
間近で見ることのない白塗りの化粧、日本髪の鬘、そして赤い唇。
この世のものとも思えない美しさと、それが目の前に存在する不思議な空間。
そして2人だけの時間。
何もかもが非現実的だった。
料理の味も全くわからない。
何を話したのかすら覚えていない。
幼馴染の全く別の顔がそこにはあった。
ただ、美しい。
思い切って手を伸ばせば掴める距離にありながらも、そんな美冬に自分は触れてはならないとそう思ってしまった。
「御馳走さんどした。」
美冬の言葉に佳介は現実に引き戻された。
「あ、ああ。ほな、会計してくるわ。先に出ててくれるか?送っていくさかい。」
佳介はそう言って席を立った。

着替えてきた方がよかったかな。
店を出ると美冬はそう思った。
佳介はいつにもなく緊張しているようだった。
ただ、着替えをして化粧を落とすとなると1時間は遅れてしまう。
佳介を待たせたくなくて急いだのが後悔となった。
ブー。ブー。
マナーモードにしていた美冬の携帯にLINEの着信があった。
携帯を取り出してみると志保からだ。

志保:さっき保健所から連絡があって、美紗が陽性やて

美冬は慌てて返事をする。

美冬:うそ!ほんまに?
志保:微熱らしいから烏丸のダイヤモンド京都ホテルで様子見やて。明日、あんたもPCR受けてな。絶対に他言無用やで。

楽しかった気持ちが一気に黒く塗りつぶされてゆく。
絶望に胸が締め付けられて息をするのも苦しく感じた。
「おまたせ。」
佳介が店から出てきたがすぐには立ち直れない。
苦しそうな美冬の顔を見て佳介は不審に思った。
「おい、どうしたんや。」
心配する佳介の声に美冬は答えられない。
「すぐ前の駐車場に車止めてるさかい、ちょっと待ってて。」
佳介はそう言うと走り出し、すぐに車を回してきた。
運転席から飛び降りて助手席のドアを開けてくれる。
「ほら、送っていくから。」
そう言って佳介が手を取ったが、必死に振りほどいた。
「うち、コロナかもしれへん。けーちゃん、帰って。」
美冬は自分が何を言っているのかもわからない。
ただ、自分が感染している可能性がある以上、佳介と一緒にいるわけにはいかなかった。
動転した美冬の言葉に佳介はため息をつく。
「あほか。今一緒にご飯食べたやないか。移んにゃったら、もう移っとるわ。ええから、車に乗り。」
冷静な佳介の言葉に反論できず、美冬は促されるままに助手席に座った。

佳介はしばらく運転した後、川端沿いに車を止めた。
「ちょっとは落ち着いたか?」
その言葉に美冬は頷いた。
「けーちゃん、ありがとう。」
「誰か、陽性が出たんか。」
他言無用との志保の言葉にしばらくためらったが、こうなっては佳介にもPCR検査を受けてもらわなくてはならない。
そのためにもきちんと話す必要があった。
「うちが面倒を見てる舞妓。」
「どこの病院にいるん?」
「烏丸のダイヤモンド京都ホテル。微熱だけやて。」
「今から行こう。」
「はぁ?何ゆうてんの、行ったかて会われへんよ。」
「会われへんでも行くんや。面倒見てんのやろ?その子は今、真由美ちゃんに申し訳ないて思てるはずや。」
佳介はエンジンをかけ、ホテルを目指した。
途中、コンビニに寄ってもらい、美紗の好きそうなスイーツを見繕った。

夜9時前にもかかわらずホテルはがらんとしており、職員がフロントに一人だけ待機していた。
美紗に会いたいと伝えたが、もちろん面会は断られた。
職員にコンビニの袋ごとスイーツを渡し、部屋に届けてもらうように頼む。
ただ、内線で会話はできるとのことだったので呼び出してもらった。
「美冬さんねぇさん、すんまへん。堪忍どす。」
涙声で美紗は言った。
「何をゆうてんのん、かましまへん。今は何も考えんと、はよ良うなることどす。」
応える美冬も泣いていた。
それからしばらく美冬は話をしていたが、美紗が落ち着いたので寝ることを勧める。
内線を切ってロビーで待つ佳介の所へ向かった。
「けーちゃん、今日はほんまにありがとう。」
「送っていくわ。実家でええのか?」
「うん。ごめんね。」
「ええから。」
2人はホテルを後にした。

その翌日、たま居にて。
「今すぐちゃんと公表せんと!」
美冬は厳しく言い放った。
「絶対あかん!何考えてんのん!」
志保も負けじとやり返す。
「ちゃんと公表して頭下げて回らんと、他所に顔見せられへんやないの!」
「あほか!そんなんしたら風評被害でうちが潰れるわ!絶対にあかん!」
30分にも及ぶやり取りが続いていた。
美紗の陽性が判明した翌日、美冬を含めた『たま居』の全員がPCR検査を受けた後、戻ってきてすぐに2人の討論が始まったのだ。
美冬は今回コロナになった美紗ともう一人の舞妓『葉月』についてきちんと公表をし、関係各所に詫びを入れて回るつもりだった。
舞妓の名をつけるということは、一人前になるまで全ての面倒を見るということ。
今回の美紗の件で頭を下げて回るためにも、一刻も早い公表に踏み切るべきだと考えていた。
一方、志保は経営面で大きな風評被害が予想されるため、公表に反対していた。
小母として置屋のマネージメントを預かる以上、リスクヘッジは徹底しなければならない。
コロナの長期化が予想され、客足も回復には程遠い現在において公表することは大きなダメージとなる。
マスコミでも感染者の大多数は身元を公表されておらず、ましてや美紗と葉月だけならクラスターですらない。
それだけのリスクを背負う必要はどこにもなかった。
「あかん。絶対に認めへん。」
「今のことだけ考えてたかて前に進めへんやんか。」
「今潰れたら先も糞もあるかいな!」
やりあう2人を心配そうに、遠巻きに舞妓たちが眺めている。
「・・・あんたら!ええ加減にしよし!」
女将である珠美の雷が2人に落ちた。
2人はもとより、見ていた舞妓たちもその迫力に震え上がる。
ふぅ。と大きなため息をついて珠美は言った。
「全員のPCR検査の結果を待って、人数だけ公表しますさかい。」
「おかあはん!」
志保は叫ぶ。
しかし、珠美はそれを無視して美冬を見据えた。
「美冬、覚悟しいや。」
厳しい批判の中で頭を下げて回るのはとても辛いことだと理解している女将。
『たま居』は佳つ美引退事件以来の大きな困難に直面していた。

その後、PCR検査の結果は全員陰性と判明した。
不幸中の幸いで、感染者は美紗と葉月の2人だけだった。
これを受けて花街連合会は祇園甲部の舞妓2名が6月終わりに感染したと7月7日にマスコミ発表を行った。
『たま居』はそれから2週間、営業を自粛した。
おぶ屋も休業し、業者による全面的な衛生消毒を行った。
美冬の家族や佳介もPCR検査を受けたが結果は陰性だった。
佳介は美冬がお詫びに回るための足になると申し出た。
美冬は丁寧に断ったが佳介は頑として聞かず、車を回して美冬が出てくるのを待っていたため、その後は送ってもらうようになった。
お茶屋や料亭、おぶ屋をはじめ祇園界隈だけで90軒以上。
そして稽古先や関係企業を含めると250軒ほどにもなる。
「すみません、女将さんいてはりますやろか。」
紺のスーツを身にまとった美冬は入り口で声をかけた。
「どちらさんどす?」
応対に出てきたお茶屋の女支配人が訊ねる。
「たま居の美冬と申します。この度はご迷惑をおかけしまして・・・。」

「出て行っておくれやす。」
女支配人が声を上げた。
「本当に申し訳ございませんでした。心ばかりではございますがお詫びの品を・・・。」
「同じ甲部や言ぅて、どんだけ迷惑かかってる思てんのん!」
「本当に申し訳ございません。」
「こんなもん、もろたかて!こんなもん!」
女支配人は差し出されたお詫びの品をひったくると表に向かって放り投げた。
「出て行け!」
側に置いてあった盛り塩をつかみ、美冬めがけて投げつける。
髪や紺色のスーツにまで塩が飛び散った。
美冬は無言でもう一度頭を下げるとその店を出た。

多くの先は仕方のないこと、大変だったねと優しい対応をしてくれていた。
しかし日ごろあまりよく思われていないお茶屋などに至っては門前払いをされた挙句、今回のように塩を投げかけられることも何度かあった。
美冬はそれでもひたすら頭を下げて回る日々を送っていた。
志保とはあの一件以来、顔を合わせても言葉を交わしていない。
そんな中で何かと心配し、側にいてくれる佳介に心から感謝をしていた。
惨めな姿を見られることに最初は抵抗があったが、心が疲れ果ててくるとそれすらどうでもよくなった。
佳介は何もないかのように無言で車を運転してくれていた。

 

7月

7月はまるで美冬の心を映したかのように雨が続いていた。
しっぽりと濡れた北山の通りは緑に包まれ美しい。
しかしあまりの大雨に高野川沿いにある三宅八幡の川岸が崩れるなど、コロナ以外にも京都人の心配は尽きることがなかった。
さらにコロナウィルス感染拡大の第2波が到来する。

例年なら祇園囃子が聞こえてくる頃であったが、鉾もなく人通りも少なく四条界隈は静まり返っていた。
祇園祭と芸舞妓とはあまり関係がないようにも思われがちだが、後祭りに行われる花笠巡行には芸舞妓も行列に参加し、その後八坂神社の舞殿で『花笠巡行奉納舞』を舞う。
昨年は祇園東、先斗町、宮川町、そして祇園甲部と4つの花街が参加しそれぞれの舞を奉納した。
毎年衣装も踊りも同じで、祇園東は『小町踊り』。
先斗町は『歌舞伎踊り』、宮川町は『こんちき踊り』。
美冬のいる祇園甲部は『雀踊り』を踊る。
しかし今年はそれもなく、祇園祭の神事だけが粛々と行われていた。
祇園祭は貞観年中(859~877)京の都に疫病が流行し際に、勅を奉じて神泉苑に66本の鉾を立てて祇園の神を迎えて祭り、洛中の男児が祇園社の神輿を神泉苑に送って厄災の除去を祈ったことに由来する。
京都も過去最高の感染者数を更新したが、祈りが通じたのか死者数はあまり増加せず、感染者も軽症や無症状の人が多かった。
祇園祭の粽(ちまき)は八坂神社で販売された他、インターネットで受け付け郵送する方法でも販売されたため、毎年購入している京都人にとっては少し祇園祭の雰囲気を味わうこともできた。

美紗と葉月は2週間の経過観察の後にたま居へと戻ったが、お座敷などの出番はなくひたすら稽古に励んでいた。
たま居も営業を再開した際に一時的に密かに悪評が流れたが、6月より取り組んできたVIP限定の和食フレンチが功を奏し広がり始めたため落ち着きを取り戻してきた。
美冬もお詫び回りを終え、ようやく以前に生活に戻りほっと一息をつくことができた。

「こんにちは。」
美冬は佳介の家を訪ねた。
「いやー!真由美ちゃん、久しぶりやないの。どないしたん?」
佳介の母が出迎えてくれる。
「けーちゃんに頼まれてた長刀鉾の粽、もうて来ましたんでお届けに。」
「気ぃ遣うてもうて堪忍え。」
「いえいえ。」
「素麺食べる?冷とうて美味しいえ。佳介ももうじき帰ってくるさかい。さ、上へおあがり。」
「いえいえ、そんな。」
「はよ。かまへんから。」

佳介の母に手を引かれ、また子供のころによく遊びに来た懐かしさもあり、ついつい居間へと上がってしまった。
昔ながらの丈の低い漆塗りの長テーブルに木の桶が乗っており、素麺がきれいに並べられていた。
薬味も豪華なものでミョウガに九条ネギ、土ショウガに温泉卵、三つ葉や鳥そぼろなどがあった。
「佳介やらが帰ってきたらあっちゅう間になくなってしまうさかい、ほら、先に食べとき。」
そう言って素麺をお皿に取り分けてくれた。
ひんやりとしたガラスの器にめんつゆを入れ、素麺を入れてから薬味を乗せた。
「んー!おばさん、美味しいです!」
台所にいる佳介の母に聞こえるように振り返って言う。
少し甘めのつゆの味は、子供のころに食べた懐かしい味わいだった。
食べ終えるころには汗も引き、幸せな気持ちになってくる。
そこに佳介の祖母がやってきた。
「平岡はんのお嬢さんかいな。」
その声に慌てて美冬は背筋を伸ばす。
佳介の祖母は近所でも評判の煩型で、美冬も何度も怒られた記憶がある。
「お久しぶりでございます。」
パンツではなくワンピースで来たことを後悔しつつも、正座で頭を下げて挨拶した。
「ちょっとよろしおますか。」
「はい。」
「先日の保存会ではお世話になったようやの。近所の人やらメンバーも喜んどったわ。」
「光栄です。」
「あんた、佳介と一緒になるつもりかいな。」
「はい?」
「嫁はんみたいなことしてたやないの。」
「いや、あれは幼馴染として・・・。」
「それとも何か?佳介をもて遊んどる言わはりますのんか?」
「いえ、そんなことは決して。」
冷や汗がジワリと出てくる。
「珠美はんはあんたのこと褒めとったけどな。」
この言葉に美冬は衝撃を受けた。
「たま居のおかあさん、知ってはるんですか?」
「昔からの同級生や。美冬のこと、よろしゅう頼んますゆうて頭下げてたえ。」
「え?」
「ええ加減な気持ちやったら容赦せんで。」
「あ、あの、ちょっとこの後、用事がありますさかい。すみません。」
美冬はそう言って頭を下げると佳介の家を飛び出した。
遊ぶも何も、付き合ってすらいないものを何故そんな風に言われなくてはならないのか。
佳介の祖母の言葉にドン引きし、一気に気分が悪くなってくる。
確かに佳介を助けたし、自分も支えてもらった。
だが、舞妓時代に恋した時のドキドキとした感じではなく、恋愛感情とはまた違う。
さらに置屋のおかあさんにまで話をするとは、あまりにも行き過ぎている。
しかも、たま居のおかあさんまでが頭を下げるなんて、どうかしているとしか思えない。
自分の知らない水面下で何かが動いている感覚に、美冬は堪らず怖気を震った。
その日、佳介から何度も電話があったが、美冬は一度も出ることはなかった。
LINEには一言、ゴメンと送られてきた。

「チントテトテ、シャン。そう、そこで足を踏め!ちゃう!何べんゆうたらわかるんや。勢いやない。音を聞け!」
時之助の厳しい声が飛ぶ。
先日、三味線の師匠である桜田から依頼されていた時之助との稽古は想像を絶するほどの苛烈さであった。
たった一小節を稽古するのに何度も何度も、満足がいくまでひたすら繰り返す。
美冬は踊り手に合わせて三味線を変化させ、何とか踊りやすいようにタイミングを整えていた。
踊り手にも癖がある。
勢いを大切にする役者もいれば、溜めを大切にする役者もいる。
時之助は状況や音楽に合わせ、溜めを重視して盛り上げる踊りを得意としていた。
その為、時之助の弟子の稽古でも自然とその流れは生まれる。
「あかん!あほぅ!」
すでに何十回目の中断で、その場の全員が疲労していた。
「30分休憩します。」
時之助はそう言うと、タオルで汗を拭く。
そして美冬の傍らで膝をついた。
「おおきに。ご苦労さんやで。」
「いえ、今回は呼んでもろて、ほんにおおきにどす。」
「桜田さんから聞いてるで。」
「へぇ。」
「美冬ちゃんやったな。確かにええ筋や。」
「おおきに。」
「踊り手にあわす地方(じかた)ゆうのは得難い。ただ、寄り添いすぎてるところがある。ええか、踊り手は踊りやすい三味線が気持ちええもんや。けど、客を魅せるためには踊り手を操るぐらいの突き放すところも必要や。そこのところ気張ったら、もっとええもんになんのと違うか。」
はははと笑いながら時之助は言った。
美冬にとってこの稽古は新しい可能性を秘めていた。
地方として真剣に励んでみたい。
そんな気持ちを高められた瞬間であった。

それから数日後、美冬は女将の珠美と2人でデザインビューロー京都の会長が主催する展覧会に足を運んでいた。
珠美は美冬に対して三村トキとのことを何も語ることはなく、美冬は聞きたいことがありながらも切り出せずにいた。
会長と挨拶をした後、展覧会を案内され休息所でお茶などのもてなしをされた。
今回の展覧会は入場制限の上、マスク着用のこともありほとんど人影を見ることはなかった。
もともと、たま居の芸者である紅月の贔屓であったが、最近は紅月よりも美冬に色目を使い、ことあるごとに手を握ろうとしていた。
もちろん珠美も紅月からそのことを聞いており、展覧会にも付き添うことにしたのである。
「今回の展覧会は京都らしさにこだわり、その感性を惜しみなく発揮させている作品ばかりなんですよ。」
大体、京都らしさというものの定義が曖昧なのに、何をもって惜しみなく発揮しているというのだろう。
会長はひたすらこだわりを語っていたが、美冬は珠美のことが気がかりでさっぱり訳が分からなかった。
元気そうに振舞ってはいるものの、珠美の呼吸はいつにも増して苦しそうであった。
「今回はお招きいただき、ありがとうございました。」
そう言って珠美は頭を下げる。
「いやいや、女将さんにお越しいただけるとは光栄ですな。」
美冬にチラチラと視線を向けながら会長は言った。
「ほな、これから市長にお会いしますよって、お暇させていただきます。」
そう言って珠美は会場を後にしようとした。
「美冬さんはまだ大丈夫でしょう?最後まで案内いたしますよ。」
会長は美冬の手を取り、先を促そうとする。
すると、珠美がふらりと体勢を崩し倒れそうになった。
「あっ!」
美冬は慌てて珠美の身体を支える。
そのまま入り口まで引き返し、2人はタクシーに乗りこんだ。
「おかあさん、大丈夫どすか?」
美冬は珠美の額に浮かんだ汗をハンカチで拭く。
珠美は返事もせず荒い息をしていた。
「吉川病院へ行っとくれやす!」
運転手に珠美のかかりつけの病院を告げて急いでもらう。
美冬はすぐに志保の携帯へ電話を入れた。

「美冬、お疲れ。ありがとう。」
志保が病室に入ってきて美冬に告げた。
衣類や下着などを詰めたバッグや、歯ブラシなどの入った紙袋をドサリと椅子の上に置いた。
「ごめんな。一緒についていながら。」
美冬が頭を下げる。
「一緒にいてくれたからよかったんやんか。」
志保はふわりと髪を背中に回した。
途端にディオールの香水の香りが部屋に広がる。
「とりあえず、検査入院やて。今は薬で寝てはる。点滴もしてもうてるしな。」
「西村会長のとこやろ?あのエロじじぃ、今度は何言ぅたん?」
「志保。」
美冬は眉を顰める。病院とはいえ誰が聞いているかわからない。
「・・・ここんとこ、ほとんど寝てへんかったみたいやわ。」
志保は溜息をついた後、心配そうに珠美を見ながら言った。
「いろんなことがあって、バタバタしてたしなぁ。」
「コロナの舞妓ちゃんの件は、連合やら財団やら頭下げて回ってはったわ。他にも銀行やら贔屓筋やら、いろいろあったみたいや。うちには何にも言わへんけどな。」
志保は持ってきたバッグから衣類を取り出してロッカーにしまいながら言った。
「志保・・・、この間はゴメン。うち、言い過ぎた。」
美冬は頭を下げる。
「うちも。ゴメンな。・・・あんたも大変やったんやて?お琴の平田先生が、あんたが塩かけられたとこ見た言ぅてはったわ。」
「ううん。おかあさんと比べたら全然たいしたことないし。」
美冬は苦笑する。
何度も喧嘩をしては、こうして仲直りをしてきた。
それは言葉では語れない絆であり、信頼でもあった。
しばらくして志保が片づけを終えたころ、ふぅ、と息を吐いた。
「昔に戻りたいなぁ。」
頭をポリポリと掻きながら志保は言う。
「コロナやったら、まだ半年程しかたってないよ。」
「何かもう、何年もこんな感じの気がするわ。」
「うちも・・・疲れたわ。」
「どしたん?」
志保の言葉に美冬は寝ている珠美をチラリと見る。
しばらく躊躇った後、美冬は志保に打ち明けた。
佳介のこと、送り火の保存会のこと。
美紗の侘び回りを支えてもらったこと、そしてトキとの会話。
「うわ、何やそれ!」
志保は思わず噴き出した。
「もう、信じられへんかったわ。」
「そんな男やめとき!」
「うん、そう思うやろ?」
「最悪やん!」
「ただ・・・おかあさんが『頼んます』て頭下げはったんが気になってな。」
「そやな。こればっかりはおかあはんに聞いてみんとわからんしな。けど、あんたはどうなん?ほんまに好きなん?」
「好きとか、そんなんとちゃうし。だた・・・信頼できる人。」
美冬が友達と言い切らないところに志保はピンときたが何も言わなかった。
「ふぅん。んで、あんたはこれからどうしたいの?」
「そんなん、もう会わへんよ。」
「ちゃう。あんたのことやん。いつまでに結婚したいとか、地方(じかた)でやっていくとか、うちと一緒に経営するとか。」
「え?経営?」
「そうやん!うちのこと手伝うてくれへん?」
「手伝うてますやん!」
「そうやのうて、ビジネスとして!」
「そら、地方でやりたい。あと、舞妓らの力になりたい。けど、今のままではあかんと思う。」
「今までにない新しいことをするっていうこと?」
「それは、わからへんけど・・・。」
言葉に詰まる美冬。
正直なところ自分がこの先何をしたいのか、どうすればいいのかはまだ見えてはいなかった。
「まぁ、あんたが何をするでも、うちはあんたの味方や。」
志保は美冬の手を取った。
「ありがとう。うちもあんたの味方やで。」
たま居を支える2人は再び仲直りをした。

それから2人は病室を出てタクシーでたま居へ向かった。
着いてすぐに美冬は化粧をして着替えの部屋に飛び込んでゆく。
「遅なってすんまへんどす。」
そこには美冬の着物を用意した男衆の『黒川』が待ち受けていた。
無言で美冬を引き寄せると、手際よく着物を着せてゆく。
それは見事な職人の手さばきで、5分もかからずあっという間に終わってしまった。
「いつもおおきに。」
頭を下げる美冬に黒川は言った。
「大丈夫か?」
ガラガラと渋い声だけに迫力がある。
「へぇ。おかあさんは、あんじょうしてはりました。」
「そやない。美冬ちゃんや。」
「うちどすか?」
黒川は一人で祇園甲部の芸舞妓を何十人も着付るため、ほとんど言葉を話すことはない。
それが今日に限って美冬を心配するとは余程のことだと言えた。
「ここ2、3日、難しい顔しとるさかいな。」
「すんまへん。」
「毎日、ようけ芸妓や舞妓の着付けをしてるとな、すぐにわかるんや。腹が座っとらんちゅうか、帯に巻かれとるっちゅうか。」
しわくちゃな顔に柔らかな笑みが浮かぶ。
「あの、・・・ちょっと聞いてもよろしおすやろか。」
「ええよ。」
「黒川はんは、今後もずっとうちらを着付けしてくれはるんどすやろか?」
「ははははは。面白いこと聞くなぁ。」
しわくちゃな顔をさらにしわくちゃにして笑う黒川を美冬は初めて見た。
「すんまへん。コロナでお座敷ものうなって、舞妓も逢い状が少くのおすやろ?これからはいろいろ変わってしまうのやおへんやろか。」
「美冬ちゃんがそないなこと言うとはな。随分と年がいったこっちゃ。・・・ちょっと、ええか。」
そう言うと黒川は畳の上に胡坐をかいた。
「へぇ。」
美冬もその隣に正座をする。
黒川はポリポリと頬を掻いた後に話し始めた。
「そら、世の中は絶えず変わっとる。昔と一緒なんちゅうもんはない。・・・そやけど、できるだけ変わらんように文化を伝えるんが花街の務めや。ワシかてこれで食うていけんようになるかもしれんけど、それでも守り続ける責任ちゅうもんがある。・・・そらな、死んだら知らん。・・・けど、生きてるうちはあんたらに着物を着せたる。・・・えぇか、美冬ちゃん、ようは覚悟や。それさえあったら、何にも怖ないわ。」
黒川は眩しそうに目を細めて美冬を見つめていた。
「ほんまに、おおきにどす。」
美冬はそっと頭を下げた。
黒川の染み入る言葉に美冬は胸が温かくなった。
「おきばりやす。」
黒川はそう言って美冬の肩に優しく手を乗せると「ほな。」とたま居を出て行った。

 

8月

8月に入ると雨は上がり、毎日が35度を超える真夏日となった。
例年のこととはいえ蒸し暑く、通りを抜ける風も生暖かいを通り越して熱い。
珠美の検査結果は過労による一時的な貧血ということであった。
志保をはじめ舞妓たちは気遣うが、いつもの厳しさを取り戻した珠美に少し安堵してもいた。
そして1週間が過ぎた8月8日夜11時ごろ。
美冬はお座敷を終え、タクシーでたま居へと向かっていた。
北大路橋を東へ渡る際に、いつもは真黒な大文字山にライトが光り、『大』という文字が浮かび上がっているのを見た。
「あっ!」
思わず声に出し、慌てて携帯を取り出す。
佳介の携帯番号を探し出したが、トキの顔が浮かび上がりしばらく躊躇ってしまった。
知らなかったで済ませばそれで済む。
だが、不吉な予感に美冬は佳介に電話せずにはいられなかった。
大文字焼は毎年決まって8月16日。
それ以外の日に点火されることはない。
プルルルル・・・
プルルルル・・・
「真由美ちゃん、ほんまにゴメン!」
佳介がいきなり詫びてくる。
「けーちゃん!大文字!火がついてる!」
美冬は叫んだ。
「えぇっ!!!!!ちょ、後で掛けなおす!」
そう言うと佳介は電話を切った。

それから2時間後、美冬の携帯に佳介から電話がかかってきた。
「連絡くれてありがとう。」
佳介の声は暗く沈んでいる。
「・・・どうやった?」
「大文字保存会の人に電話して、みんなで麓へ乗り付けたんやけど逃げられたわ。何やラジオでも放送されたみたいでな。京都新聞の人も来てはったわ。」
「・・・大変やったね。」
「もう、あかん。」
「え?」
「折角、真由美ちゃんに力になってもうたのに、こんないたずらがあったら間違いなく中止や。」
「・・・。」
「あんな、LEDみたいなもんでバカにしよって。・・・送り火は一つひとつが京都人の祈りなんや。・・・それを・・・それを・・・。」
電話の向こうから微かに嗚咽が聞こえてきた。
美冬は無言で受け止めることしかできなかった。
しばらくした後、佳介はありがとうとだけ言い電話を切った。

その翌日、送り火に参加する6つの保存会のTOPによる会議が行われた。
警察には犯人の捜査依頼を出すこと。
そして今後の入山許可などについても話し合われた。
しかし、大文字山に関してはハイキングコースとして多くの人が入山している経緯もあり、なかなか難しいとのことであった。
そして、本題ともいえる送り火の開催についても議論がなされた。
今回のいたずらを受けて、送り火の趣旨を理解していない人の行為で行事が汚されたこともあり、今年は全面的に中止をするべきだという意見も提示された。
しかし、妙法の保存会をはじめ多くの人が、「だからこそ、きちんと御生霊さんを送ることが必要なのではないか」との意見を出し、決行するべきだと強く訴えた。
規模を縮小しての開催だからこそ、本来の意味が輝くのではないかと。
それを聞いた佳介は一番に美冬に連絡をした。
「真由美ちゃん、ありがとう。」
佳介のその言葉に美冬は少しほっとした。
ただ妙の保存会の個別会議では、今回の一番の功労者である真由美が参加していないのは何故かと佳介はひどく怒られたらしい。
「うちは、ええし。」
美冬は苦笑しながらそう言った。
「真由美ちゃん、ほんまは会って言いたかったんやけど、結婚を前提に付き合うてほしい。」
佳介が真剣な声で言った。
「今は無理。」
美冬は即答した。
「うちのばあちゃんが先走ったのは悪かった。ほんまにゴメン。でも俺はずっと前から」
「それもあるけど、そうやないんよ。」
美冬は自分の中にもやもやとしたものを感じていたが、今ここではっきりすることはできなかった。
「とにかくゴメン。」
そう言って美冬は電話を切った。

その夜。
おぶ屋『翠雲』を早めに切り上げた美冬は9時過ぎに家に帰った。
父がリビングにいるので、そっと部屋に上がろうとすると「真由美か。ちょっとこっちに来なさい。」と声をかけられた。
一体、何を言われるのかと緊張しながら向かい側に座る。
隣に正座した母は珍しくうなだれていた。
「今日、三村君とこの息子が玄関で土下座をしにきた。」
父のその言葉に美冬は凍り付いた。
「お前を傷つけてしまったので謝りたいと。」
トキもトキなら佳介も佳介だ。
一家で破天荒な行動をしている。遺伝子のなせる業か。
父はその後しばらくテーブルを見つめていたが、諦めたように吐き出した。
「もとはお母さんが悪い。今日、怒っておいた。」
「ごめんなさい。」
いつもは明るい母がうなだれている。
「ちょ、ちょっと待って。何がどういうこと?」
父の話では、佳介がずっと美冬のことを好きだったことを母の佑子は知っていたらしい。
そして送り火の保存会や舞妓のコロナの件で2人が一緒にいるところを見て付き合っているのだと思い、平岡の家でつい「早く嫁にもらってくれ」と言ってしまったというのだ。
そこでトキがたま居のおかあさんに相談したということだった。
「お母さん・・・。」
美冬は呆れかえって二の句が継げなかった。
「まぁでも、もう終わりや。三村のとこには断りを入れておく。お前を守ることもできんようなぼんくらに嫁にくれてやるつもりは全くない。お前もええな。もう、あいつとは会わんでええ。」
その父の言葉が美冬の心に引っかかった。
悪いのはこっちの方ちゃうのん?
それに、うちは誰かに守ってもらいたいわけやない。
だが、今日はいろんなことがありすぎて疲れてしまっていた。
父の言葉に反論もせず、お風呂に入って布団に倒れこむとあっという間に眠りに落ちた。


それから1週間後の8月16日。
灼熱の京都は帳を下ろし、夜の闇に包まれていた。
佳介は送り火の行われる妙の山で点火の準備をしていた。
保存会の理事長が今回は佳介に点火を任せたいと言ってくれたのだ。
点火は保存会メンバーにとってとても重要な役割であり、今まで理事以外の者が任されることはなかった。
今年限りとはいえ、佳介が骨を折って説得に駆けずり回ったことに対する保存会の面々の感謝の現れである。
あと数分で合図がかかる。
きっと、真由美も見てくれているに違いない。
そう思うと誇らしくも感じるが、『無理』と言われたことを思い出し少し自信を失う。
初めての点火にドキドキしつつ京都の街を見下ろした。
煌びやかな街灯の中、真ん中だけがぽっかりと闇に包まれていた。
それが京都の中心『御所』だ。
他所では見られない、この独特の京都の夜景が佳介は何よりも好きだった。
「点火ぁーっ!」理事長の声でハッと我に返る。
佳介は厳粛な気持ちで妙のたった一つの灯火を付けた。
読経が闇に流れ、瞬く間に火が大きくなりパチパチと木が爆ぜる。
多くの京都人は自宅で明かりを消し、厳かな気持ちで手を合わせてこの送り火を見守った。

8月も終わりを迎えようというのに毎日40度近い酷暑が京都を包んでいた。
雨が降らないためかPM2.5や黄砂により遠方の山が霞んで見える。
「あ、美冬ちゃん、久しぶりやないの。」
店内に入ってゆくとマダムが声をかけてくれた。
下鴨にあるジェラート・ベネは高級で濃密なジェラートが有名だ。
「ほんまに暑おすなぁ。」
踊りのお稽古の帰り、浴衣姿で美冬はここに訪れた。
「涼しそうな顔で何ゆうてんのん。」
「マダムもお元気そうで。」
美冬はいつものお濃茶ジェラートを頼み、腰を下ろした。

しばらくして出てきたジェラートを専用の練り椀に取り分け、少し練るとお茶の香りが広がる。
口に含むとじわっとお茶のうまみがあった。
美味しさに心が緩み、ほぉーっと長いため息が漏れる。
スプーンを持つ手がピタリと止まり、目をしばし閉じていた。

そんな美冬の姿を見ていたマダムは、マドレーヌに焼き印を入れる手を止めて話し出した。
「私が53歳でイタリアのローマに留学してた時や。・・・その時はほんまに辛うてなぁ。言葉も通じへんし、若い頃みたいにテキパキできへんし。・・・一緒に住んでた建築家のイサちゃんも難しい人やったのよ。学費も高かったし帰るわけにもいかへんから、それでも何とか頑張ってたんよ。」
他にお客さんはなく美冬しかいないのだが、マダムは誰に語るともなく一人で話し続けていた。
「ある日、日本の友達が遊びに来てな。そしたら、気持ちが緩んだんやろなぁ。・・・愚痴を言うでもなくその人の顔を見ただけで、たった一粒の涙が零れたら止まらんようになってしもうたんよ。」
マダムの話についつい引き込まれた美冬はジェラートを食べるのも忘れ、いつしか涙ぐんでしまっていた。
「人生で初めての留学で不安やったし、思うようにものが覚えられへん自分に悔しくてなぁ。・・・結果が出せへんうちは帰ることもできへんっていうプレッシャーも大きかったし。・・・まして一番辛かったんは、自分の中のもやもやーしたもんが何か、全くわからへんかったんよ。」
そのマダムの言葉で美冬の頬に涙が一筋、流れ落ちた。
全く同じ気持ちが美冬の中にあった。
佳介のこと、たま居のこと、そしてこれからの自分。
もやもやとしていて、どうすればいいのかわからなくて、不安で苦しかった。
知らないうちに涙が溢れて止まらない。
「その時、私の友達が何て言ったと思う?」
そう言うとマダムは美冬の顔にビシッと指を突き付けて言った。
「『あなた、京女でしょ!』・・・しっかりとか元気出してとかやのうて、『京女でしょ!』よ?・・・そら、ずっと京都で生まれ育ってきたけど意識したことなかったわ。京都に住んでたら当たり前やもん。そやけど、その言葉で自分に電気が走ったのよ。あっ!って。それから成績もようなって首席で卒業して帰ってこれたんよ。」
マダムはそう言うと、もう一度両手の指先をピッとかわいく美冬に向けた。
あははははは。
73歳でもかわいいマダムについ美冬は笑ってしまった。
「アイス、溶けんうちにはよ食べや。」
マダムはそう言うと冷蔵庫から小さなグラスに入ったスイーツを取り出し美冬の前に持ってきた。
「新作の純米大吟醸ゼリー。私のおごりよ。」
「マダム、おおきに。」
泣いて、笑って、美味しいものを食べて。
こんなアイス屋さんはきっとどこにもないだろう。
美冬は元気をいただいた。

その夜、お座敷の予定がなかったので美冬は実家の部屋にいた。
『京女』
マダムに言われた言葉にハッと気づいた。
佳介の祖母であるトキが何故、たま居の女将である珠美に問い合わせしたのか。
そのカギは京女にあったのだ。
生粋の京都人はそれぞれに情報の流れる道筋としての『伝手』を持っている。
狭い京都の中で何世代にも受け継がれてきた血筋はその地の人々に認識をされていた。
つまり、どこそこの誰それがいつ、どこで何をしていたのかということが割とよく知れ渡ってしまうということ。
だからこそ、下手なことはできない。
いわばそれが家の、そして個人の信用ともなっており、その情報が流れる筋道というのもある程度わかってしまう。
美冬などはその最たるもので、『松ヶ崎の町長であった平岡家の芸妓』という人目を引いてしまう経歴のため、どこの置屋に在籍しているのかなどの情報は、お茶屋に出入りしている寺社が顧客であるトキにとってあっという間に調べがつくものであった。
しかし、母がそんなに急に三村トキの家に結婚の話などを持っていくとは考えにくい。
おっちょこちょいな母ではあるが、何か他のきっかけがあるような気がしてならなかった。
しばらく考えていたが、ふと、佳介が言っていた言葉を思い出す。
「親父から俺が受け継いで整えさしてもうてる。」
つまり、普段から佳介はこの家に出入りをしていたことになる。
そして、母の佑子と美冬が進々堂の食事の後で佳介と出会った折、二人になるように仕向けて『佳介』の肩をたたいてクリーニング店へ向かったこと。
佑子は佳介の美冬に対する思いを知っていた。
だから、三村の家に頼み込んだのではないか。
花街では伝統芸能を継承する一方、京都のブラックボックスであり様々な水面下でのやり取りや接待が行われている。
それを日常的に見ており、実際に自分も自然とやり取りをこなせるようにもなっていた。
その美冬の勘が佳介がきっかけを作ったのだと告げていた。

昔から好きだったこと、でも住む世界が分かれて諦めていた。
それがコロナによって手の届くところに戻ってきたのだとしたら。
自分が佳介の立場であったとしたら、多分手を伸ばしてしまうだろう。
その気持ちも理解できた。
美冬にも好きだった人がいた。
妻子持ちであったとしても、手を伸ばせば届きそうな感覚。
頭では判っていたとしても諦めきれない気持ち。
全く同じではないけれど、理解はできる。

ただ、問題はそれを受け入れられるかどうかだった。
京都では未だにお寺の住職や老舗の跡取りなどは、見合いという名の政略結婚がままにある。
それでなくとも家格を気にする京都人は多い。
それは「おきんとはん」という言葉にも表されていた。
気持ちがどうであれ、お見合いということで結婚をする人もこの京都には未だに少なくない。
また、嫁いだ先で形だけの結婚生活を続ける人も実際に見聞きして知っていた。
家のためだけに結婚をし、ある程度気持ちを通わせ、ある程度割り切って世間体を繕う。
自分にはそんな家庭を続けることはできない。
もちろん佳介はパーフェクトな理想の結婚相手ともいえない。
しかし、再開してからの短い間でのやり取りや、美冬が辛い時にじっと側で支え続けてくれたことは信頼できると思っていた。
やはりドキドキといった感じはなく、安心感に近い。

まずは付き合ってみてから結婚を考えてみてもいいのでは?とも思ったが、付き合うのはお互いを知るための期間という意味合いが強いと美冬は考えていた。
佳介はそういう意味では勝手知ったる他人の家。
幼いころからあまり変わっていない彼ならば、祇園の裏の世界を垣間見てきた美冬にとっては容易い相手ともいえた。
そうなると今から改めて付き合うことは悪戯に時間を稼いでいるような気がする。
私に何も負い目はないのに時間を稼ぐようなことは、自分にとって良くないことだと思った。
もちろん、好いた惚れただけで結婚できるような年齢ではない。
家族のこと、仕事のこと、お互いの価値観など全ての面でいろんな判断を行わなくてはならなかった。

見合いのように、付き合うのを通り越して結婚というのは少し抵抗はあったが、佳介とそうなったとしても絶対に嫌という感じもなかった。
また、これから自分のしたいことにも考えを巡らす。
美紗を一本立ちさせるまではきちんと面倒を見なくてはならない。
また、地方としてもっと認めてもらうこと。
時之助との繋がりで新たな道が開けそうな手がかりを育てたいとも思う。
そして、志保を助けてたま居に貢献すること。
それらのことを全部ひっくるめて『花街のために尽くしたい』というのが自分のしたいことだった。

意外にも父についてはそんなに心配はしていなかった。
佳介との付き合いを反対しているようだったが、娘を取られたくないという思いから来ているのだろう。
最終的に私が幸せになれば、舞妓になった時のようにきっと理解してくれると信じていた。
むしろ、結婚式には号泣している姿すら目に浮かぶ。
長年の父への蟠りはどこへ行ってしまったのかと思う程、まったくしこりは無くなっていた。
これもコロナのおかげなのかもしれない。

様々な細かいことを考え続け、すでに2時間が過ぎようとしていた。
ふぅ。
深呼吸をしてベッドに横たわる。
改めて『京女』という言葉をかみしめた時、ふと黒川の言葉が浮かんだ。
「そらな、死んだら知らん。・・・えぇか、美冬ちゃん、ようは覚悟や。それさえあったら、何にも怖ないわ。」
どんな環境になったとしても、どんな境遇にいたとしても、自分がどうするのかという覚悟さえ決めていれば必ず道はある。
黒川の言葉はそのように聞こえた。
後は自分の覚悟次第。
京女としての覚悟を決める時だ。
美冬は佳介のLINEにメッセージを入れるとすぐに返事があった。

美冬:今なにしてる?
佳介:ハサミの手入れをしてる
美冬:これから会える?
佳介:・・・会ってもいいの?

佳介の返事に美冬はハッと思いだした。
父が断りを入れ、二度と会わないと佳介の家に言ったことを。

美冬:いいよ お父さんのことは気にしないで
佳介:わかった 迎えに行こか?
美冬:近所の公園で待ってて

そして美冬はそっと家を出た。

佳介と公園で待ち合わせた後、佳介の車に乗ると宝ヶ池まで少しだけドライブをした。
「懐かしいな。」
美冬は中学の頃、マラソン大会で冬に池の周りを何周も走ったことを思い出した。
佳介は車を駐車した後、ゆっくりとキツネ坂に向かって歩く。
灼熱の太陽に照らされたアスファルトは、夜になってもまだジワジワとその熱を放出していた。
その熱により坂の上から見る京都のきらびやかな夜景が、ゆらゆらと揺らめいて見えた。
「京都タワー、綺麗やな。」
正面に京都タワーが小さく見える。
「ここの夜景が一番好きやねん。」
佳介は美冬を振り返りながら言った。
「けーちゃん。」
「ん?」
「うちのお母さん、その気にさせたんはあんたやろ。」
「え?そんな、人聞きの悪いこ」
「うちにはわかってる。」
「・・・ゴメン。」
「・・・ほんまに、絵にかいたような京都の長男坊やな。」
美冬はついつい笑ってしまった。
ぼんくらのように見せて親には逆らわず、それとなく自分の望む方へともってゆく。
しなやかに生きてゆく為に京都の歴史から生まれた処世術。
「けど、俺は真由美ちゃんのことがずっと好きなんや。」
「そやかて、もっと他にやり方あるやん。」
「え?」
「またもう、あんた、ずるいわ!」
「・・・結婚してくれるか。」
「ちょっと、また勝手にそ」
突然、佳介は美冬の肩に手を置き、キスをした。
いきなりで一瞬身を固くした美冬だったが、諦めたように力を抜く。
急速に胸がドキドキと高鳴っていた。
佳介は中学の頃の男の子ではなく、一人の男性として目の前にいた。
しばらくして佳介は美冬を放した。
「返事、聞いてもいい?」
「かましまへんけど、覚悟しておくれやす。」
美冬はそう言って笑った。

それから1週間後、美冬は朝から白塗の化粧をし、一番高価な着物を男衆の黒川に着せてもらっていた。
男性の強い力で締められる帯は美冬の身をビシッと引き締めてくれる。
芸妓にとってこの姿は戦闘服だった。
「えらい、気合入っとんな。」
黒川は笑っていた。
鬘をつけ、籠を手にするとたま居を出る。
向かう先は三村トキの家だ。

「ごめんやす。」
玄関を入ると佳介とその母が芸妓姿の美冬に驚き慌てている。
「ま、真由美ちゃん・・・。」
佳介の声を聴いたのか、居間からトキの声がした。
「お入りやす。」
美冬は草履を脱いで居間へと向かう。
床の間を背にピシリと背筋を伸ばして正座するトキは、86歳だが矍鑠としていた。
その正面に美冬は正座する。
佳介と母の仁美はその中間に正座した。
「もう、うちには出入りせんのと違ごたんか。」
低い声でトキは言った。
「佳介さんに頼まれたんどす。」
美冬はしれっと躱す。
佳介には何も頼まれてはいない。
また、トキと話をしにくることは佳介にも言っていなかった。
きっと佳介は内心で慌てていることだろう。
トキはチラリと佳介を見たが、佳介は固まったままピクリとも動かなかった。
「うちは芸妓を呼んだ覚えはない。何か用どすか。」
「芸妓やあらしません。今日は嫁として挨拶しに越さしてもろたんどす。」
「ほう。」
「先日、佳介さんから結婚したいて、ゆうてもらいました。うちもそれを受けるつもりどす。ただし。」
美冬は佳介を一度見た後、トキに視線を戻して胸を張った。
「これからも花街のために尽くしたいと思てます。」
三村にしろ平岡にしろ、昔からの京都人は嫁が水商売をしているのを嫌う節がある。
ただ、花街は伝統芸能の継承という面においてとても重要な役割を果たしていた。
美冬は芸妓であることを誇りに思っている。
この爆弾発言に佳介は、間違いなくトキに反対されるだろうと顔を青くしていた。
トキはじっと美冬を値踏みするように見ていた。
美冬はさらに続ける。
「芸妓になってから6人の舞妓を一本立ちさせてきました。うちは京都で生まれ育ってるさかい、京都人のものの捉え方、考え方ゆうもんがわかります。他所から来はる子にはわからしません。・・・仕込みや舞妓の苦しい修行の中で、それがわからずに逃げる子も決して少のうおへん。それをわかりやすいように教えたり、フォローしてきたことがその結果につながるんやと思てます。これから先、コロナでどうなるか知らしませんけど、『京都なんてもう嫌や』て帰ってしまうんやのうて、『文化を守り続ける花街に来てよかった』と、心からそう思うてもらえるように尽くしてゆきたいんどす。それがうちにしかできへんことやと思てます。」
美冬は静かに思いの丈を語った。
激するでもなく、真摯に切々と訴えるような言葉は何一つ嘘偽りのない言葉だった。
トキはしばらく無言であったが、何かを決したように口を開いた。
「うちはあんたが本気かどうか聞いただけや。何をしようが知ったことやあらへん。」
ほほほとトキは笑った。
「爺さんが死んで45年。うちは一人でこの家を守ってきた。ええ時ばかりやあらへん。京都のしがらみの中で生きてゆくにはそれなりの覚悟がいる。息子の嫁もちょっと頼りないが、覚悟は持っとる。」トキは佳介の母を見て頷いた。
母は手で口元を押さえ、目を潤ませていた。
「あんたの覚悟は見せてもろうた。真由美はん。佳介を頼むえ。」
そう言うとトキは頭を下げた。
「不束者どすけど、よろしゅう御頼申します。」
美冬も三つ指をついて挨拶をした。

 

9月

9月に入り、朝夕に虫の音が聞こえるようになると、京都人は月が恋しくなる。
コロナで秋も様々な月見の行事が中止にはなったが、月は相変わらず美しかった。
ある夜、美冬はお座敷の後に女将である珠美の部屋に呼ばれた。
「あんた、よっぽどトキちゃんに気に入られたんやな。」
そう言うと珠美はほほほと笑った。
「トキちゃんは昔から思たことをすぐにしはる。ほんまに凄いお人や。ええか、あの人から学ぶことはぎょうさんある。これから必死で勉強しいや。」
美冬は訳が分からず聞いた。
「おかあさん、何のことどすやろ?」
今日、おいでやす財団から理事が来て、新設部署の協力要請があったらしい。
今後舞妓のカウンセリングを行うため、力を貸してほしいと美冬を名指しで来たのだそうだ。
表向きはあくまでも要請だが、ほぼ決定事項として話は進められていた。
トキがお寺の住職や取引先に手を回し水面下での根回しをした後、花街連合会に乗り込んで話をつけ、財団がそれを実現したということだった。
また、たま居のVIP限定フランス料理はトキによって寺社の奥様方に広められ、予約は半年先まで埋まるという状況が続いているという。
トキの行動力と顔の広さに美冬は驚くことしかできなかった。
財団に身を置くということは花街全体に対して公平でなくてはならないため、一つの花街、一つの置屋に籍を置き続けることはできない。
しばらくの間は芸妓として三味線など地方(じかた)の活動を続けたいと思っていたのだが、その思いはトキに読まれていたのだろう。
『花街に尽くすのなら、三村の嫁として尽くせ』ということだった。
それを望んだ美冬ではあったが、まさかこんな形で芸妓をやめることになるとは思ってもいなかった。
トキの思惑にはめられてしまうことは少し悔しかったが、望みが形になり新しい道が開けたことに心から感謝をした。
「引き祝いは早い方がええな。」
珠美はそう言って微笑んだ。

それから2週間後、美春が新しく借りたマンションで美冬の送別会が開かれた。
美冬の妹芸妓6人と舞妓の美紗、そして小母の志保と美冬が集まるととても賑やかだった。
「はい、美冬ねぇさんにプレゼント!松坂牛のA5ランク、シャトーブリアンや!」と美紀が木箱を差し出した。
「あんたそれ、ご贔屓さんからのプレセントやろ!」と志保が言う。
「あら、ようわかっておいでやすな。」と惚けていた。
それを見た美佳は、慌てて紙袋を隠す。
「あんた、何隠したん。」と美紀に見つかって取り上げられた。
「時しらずの西京漬けどすがな。」
「あんたもご贔屓さんからのプレゼントかいな。」
美紀が呆れる。
「美紀ねぇさんに言われとうないどす!」
美佳は顔を真っ赤にして抗議した。
琴美は花束を、久美はケーキ、智美はキティちゃんの根付、美春はかんざし、そして美紗はミス・ディオールの香水をそれぞれ美冬に手渡した。
それぞれに思いのこもったプレゼントに美冬は目が潤んでしまった。
また、それぞれの舞妓時代に起こった出来事を思い出し、美冬にとても世話になったことを話し合った。
美紗はコロナの件で迷惑をかけたが、その恩を返すことができないことを何よりも悔しがっていた。
「一本立ちしてくれたらそれでええのよ。」と美冬は笑う。
美紗が一本立ちするまでは美春が面倒を見ることになっていた。

最後には妹芸妓の全員が三つ指をついて頭を下げた。
「美冬さんねぇさん、ほんに、おおきに。」
「美冬さんねぇさん、ありがとうさんどす。」
「美冬さんねぇさん、ほんまにおおきにどす。」
「美冬さんねぇさん、本当にありがとうございました。」
「美冬さんねぇさん、心から感謝してます。」
「美冬さんねぇさん、ほんに、ありがとうさんどした。」
「美冬さんねぇさん、ほんまに、おおきに。」
みんなのその言葉に涙を止めることはできなかった。
「うちも、みんなにいっぱい、いっぱい、幸せをもろたんえ。ほんまに、おおきに。」
その美冬の言葉に、その場にいた全員が泣いてしまった。
「出戻ってくるのん、待ってるさかいな。」そう志保が言うと、みんなが泣きながら笑った。

 

11月

吐く息も白くなり、そろそろ師走の声も聞こえ始める11月。
第3派ともいえるコロナの感染拡大により、GoToキャンペーンにも陰りが見え始めていた。
それでも一度流れ始めた人の動きは簡単には止められそうもない。
モラルか欲望か。
人々の気持ちは微妙なラインで変化に揺れ動いていた。
美冬は真白な無地に一つ紋の着物を着て、引き祝いのために関係各所を回り挨拶をしていた。
三角の形をした和紙に「引き祝」と芸名、本名を書いてお配りものに付ける。
その時の配り物は、真白いものだと「もう二度と花街には帰ってきません」という意味があり、そこに赤いものを一点添えることで「また、戻ってきた時にはよろしくお願いします。」という意味に変わるのだ。
美冬は北山の手書き友禅で作ってもらった白いシルクのハンカチに赤い小さなテントウムシを描いてあるものをお配り物とした。
美紗の件で厳しい対応をしたお茶屋も「ご苦労さんどした。惜しいことやな。」とねぎらいの言葉をかけてくれた。
何とか全ての先にお世話になったお礼を述べて、歌舞練場へとたどり着く。
まだ改修中の歌舞練場は工事の人が出入りし埃が舞っていた。

20年前、舞妓としての基礎を学んだこの場所は心の中でもまだ、当時の面影を残している。
厳しいこともあったが姉芸妓や妹芸妓、舞妓同士のつながりなどをはじめ、様々な絆を繋いでくれていた。
コロナで変革を余儀なくされる時代において、今度は守り続けるために身を引く。
美冬は感謝の思いとともに最後に深々と頭を下げた。

たま居へ戻ると女将の珠美がわざわざと出迎えてくれた。
部屋に入り、最後におかあさんに挨拶をする。
「あかあさん、今まで、ほんまにお世話になりました。」
「お疲れさんどした。」
美冬は三つ指をついて丁寧に頭を下げた。
「最初にあんたが冬の字を名前に入れてくれ、ゆうた時は縁起でもないて思うたもんどす。志保ともケンカばっかりして。それがあっという間に立派な芸妓になって、6人も襟替えの舞妓を生み出すやなんて。」
珠美は名残惜しそうに美冬を見ながら話していた。
「冬は厳しい季節やけど、それがないと春に花開く時に勢いがあらしまへん。それに私の生まれた季節どっさかい。験(げん)は悪おすかもしれへんけど、希望があるような気がして・・・。」
「最初の時もそない言ぅてたなぁ。佳つ美もなんや、それが気に入ったとか言ぅてからに。」
二人は当時を思い出して笑いだしてしまった。
「・・・あっという間の20年やった。」
二人の間にしばらくの間、沈黙が下りた。
「ほんまに、いろいろありがとうございました。」
美冬の言葉にほほほと珠美は笑う。
「まぁ、いろいろあったけど、あんたのことは何も心配してへん。・・・それよりもうちの志保のことどす。女将としては半人前。あの勝気な性格やさかい男も怖がって寄り付かん。そのくせ、あんたみたいに覚悟もできひん。・・・難儀な子やけど、それでもうちのたった一人の子供や。」
「いえいえ、立派にされてますやないですか。」
「立派なもんかいな。いつまでも子供みたいなことしてからに。・・・力になったってや。あんじょう、頼んます。」
珠美が頭を下げた。
20年の間、たま居で一緒に過ごしてきた美冬にとって、珠美の気持ちはよくわかる。
「はい。おかあさん。」
芸妓をやめたとしても、美冬の『おかあさん』であることに変わりはなかった。

 

こうして美冬は三村真由美として新しい人生を歩むことになった。
もちろん結婚式も身内だけの簡素なものに抑え、新婚旅行もなしというものだったが、真由美にとってはあまり大したことではなかった。
新型コロナウィルス感染拡大によって社会は変革を余儀なくされ、様々な局面で大きく変わっていったが、1200年の歴史に揉まれた京都人の本質は今までと変わることなく、しなやかに逞しく生きていた。
新しい考え方や今までにないものに注目が集まりがちだが、周りの人に感謝し、真摯に向き合うことで人はまた繋がれる。
そして、自分の中に覚悟をもって生きることできっと道は開けると真由美は信じていた。
「こんにちは。ごめんやす。」
上七軒にある置屋の玄関を開けた。
「へぇ、おいでやす。」
「財団の三村です。本日のカウンセリングに伺いました。」
さぁ、今日はどんな舞妓に出会えるのだろう。
未来の芸妓のために精一杯、できることを頑張ろう。
真由美はそう思うと微笑んだ。

(終)

参考文献 WEB版 京都新聞・おおきに財団WEBサイト

 

おまけ『女将の追憶』

たま居の女将である珠美が大石会長の訃報を聞いた後、各方面へ連絡を取ったり様々な手配をしたりして気が付けば夜の11時を回っていた。
置屋を営業していれば夜中の2時、3時などは当たり前だったが4月7日の休業以来、夜の11時まで忙しいことは珍しかった。
ようやく一段落を迎え、おぶ屋のカウンターに座りふぅーっと長い息を吐く。
そしてグラスを二つテーブルに出すと、棚に置いてあったヘネシーVSOPを少しだけ注いだ。
そのボトルには所狭しと千社札が張られ、すでにヘネシーのラベルも見えなくなっていた。
ボトルにかけられたプレートには大石の名が本人の筆跡で書かれていた。
もうアルコールを口にしなくなって40年以上になる。
だが、今日だけは特別だ。
長年付き合ってきた彼に、もう二度と会うことができない。
恵美子夫人から電話を受けてからも、未だに信じられない思いがずっと胸の中に存在した。
きっと、嘘。
信じられない。
ひどい冗談。
何度も心の中で繰り返す。
半世紀、50年という年月が過ぎても初めて言葉を交わした記憶は全く色褪せていない。
こんなにはっきりと思いだせるのに、もうこの世にいないなんて・・・。

珠美が芸妓として座敷に上がっていた34歳の頃。
他の花街のおぶ屋に呼んでもらった時のことだった。
それまでにも大石のことは度々見かけており、挨拶をする程度には知っていた。
その夜はかなり人の出入りもあり、BOX席に陣取っていた大石のもとには珠美しかいなかった。
同席していたのは老舗漬物屋の平山社長。
そして一部上場企業である仕天堂の内山会長だった。
「君たちがこれからの京都を作っていかなあかん。期待しとるんやで!」
珍しく上機嫌な会長はお気に入りのパイプを振りまわして、当時は駆け出しだった大石社長と平山社長に話しかけていた。
それぞれの業種は違えど、京都を支える代表的な会社のトップがこうして顔を突き合わせるのは花街では珍しいことではなかった。
珠美は会長のグラスに新しい水割りを作ってゆく。
普段は偏屈で難しいと評判の内山会長であったが、余程嬉しいことがあったのかこの日は始終笑顔であった。
しばらくして内山会長がパイプを置いて席を立つ。
酔っているのかと思いきやしっかりとした足取りで御不浄のある方へと消え去っていった。
待ってましたとばかりに大石は平山を肘で小突く。
「おい、おまえタバコ持ってるやろ。ちょっと貸せ。」
大石はそう言うと、平山からタバコを1本受け取った。
平山から渡されたタバコの巻紙を破り、会長のパイプにタバコの葉をこれでもかとばかりに詰め込んでゆく。
「ちょっと、よしなはれ。」
珠美が窘めても大石は一向に止めない。
見かねて珠美がパイプを取り上げようと手を伸ばしながら言った。
「ええ加減に、しな」
最後まで言わせずに大石は珠美の手を取る。
ハッとする珠美にいたずらな笑顔でニコリとし、大石は手を放してしーっと唇の前で指を立てた。
そして自分のパイプのタバコの葉を取り出して、会長のパイプにカモフラージュとして詰め込んだ。
折よく会長が戻ってきて、席に座るなり大石がパイプを差し出す。
それを受け取った会長にすかさず平山がマッチの火をつけた。
「おーぉ、すまんな!」
3人が見守る中、会長がパイプを吹かし始めると・・・。
「うわっ!ぺっ!ぺっ!なんじゃこりゃ!」
酔いも醒めたとばかりに目を見開いて慌てる会長に3人は大爆笑していた。
いたずらな少年がそのまま大きくなったような大石の一面は、その後も変わることなく様々な人を魅了してゆく。
それ以後、珠美は何度となく大石から逢い状をもらい、1年後に一夜を共にすることとなった。

ふと我に返った珠美はグラスを回し、ブランデーの香りを楽しむ。
そして、舐めるようにほんの少しだけ口に含むと、椅子の背に身を預け天井を仰ぎ見た。
会う度、話す度に惹かれてゆく。
そして、身を重ねるほどその思いは強くなった。
もちろん大石が既婚であることもわかってはいたが、止められるものではなかった。
お互い忙しい身であるがゆえに会う頻度は少ないものの、お互いの考え方や感じ方は話せば話すほどお互いを高めあえるものになっていった。
煌めく恋心に珠美は我を忘れていた。
しかし、それが深い愛情に変化したのは、珠美が恵美子夫人に出会ったからだ。

大石社長主催のパーティで花街の様々な芸妓たちが呼ばれ、会場に華を添えていた。
社長と夫人は最後までお客様を送るためにバタバタとしており、珠美は陰ながらそれを支える役割を務めていた。
そして片付けが終わる頃、たまたま夫人と二人きりになった。
「お疲れ様。今日はありがとう。」と夫人は労う。
「お疲れさんどした。」珠美は平静を装いながら返事をした。
予期せぬ初めての顔合わせに珠美はかなり緊張をしていた。
引け目と羨ましさと寂しさがない交ぜになった感情。
珠美はそれを顔に出せば負けだと思っていた。
「珠美さんやね?うちの人をいつも支えてくれはって、ありがとう。」
そう言った夫人の顔は心から感謝をしているようだった。
愛人にかけるような言葉ではない。
感謝しているとどうして言えるのだろうか。
珠美はつい、口に出してしまった。
「全部、聞いてはるんどすか?」
「ええ。たまちゃん、たまちゃんって。とても気がつくんですってね。」
ほほほと朗らかに笑う夫人を見て珠美はさらに踏み込んだ。
「うちのこと、憎んではるんどすやろ?」
すると夫人は少し困った顔をして椅子に座った。
珠美にも座るように勧める。
「そうね。以前はそう思ったこともあったわ。でも、あの人に惚れるのは女性だけじゃないのよ。男性も、若い人も、年配の方も。あのやんちゃな笑顔はみんなに愛されている。独り占めできるような人ではないのよ。それに大きな責任を背負っているんだもの、みんなで支えていかなきゃ。」
恵美子夫人はそう言うと珠美の手を取り、自分の手を重ねた。
その言葉を聞き、珠美は夫人との器の差をはっきりと感じた。
この人には勝てない。
いや、勝つとか負けるなんて次元ではないと心が理解してしまっていた。
「すみませんどした。うちのこと、許しておくれやす。」
「いいのよ。・・・これからも支えてあげてね。」
夫人はそう言うと、優しく珠美の手を握り締めた。

それから珠美は大石との関係を改め、2人だけで夜を過ごすことはなくなった。
一方で夫人の手伝いに精を出した。
夫人は留学生の支援や地域のボランティア、蘭の栽培、茶道や華道をはじめとした先生方との交流や行事、また、少しの時間でも料理やお菓子を作り、会社や近所の人に配ったりもしていた。
さらにはライオンズの婦人会の世話、自宅に企業の経営者を招待する際の接待や様々なイベントの援助など、夫人は一体、いつ寝ているのだろうと思う程に日々、多くのことをこなしていた。
夫人との仲が深まるにつれ、大石会長の珠美に対する信頼は大きくなっていった。
そんな夫人が、大石の訃報を知らせる電話を切る前に、つい心から零れ出てしまった言葉。
「もう、触れることすらできないの。」
その言葉に珠美は返す言葉を持たなかった。

ブランデーを手に持ち、天井を眺めていた珠美の頬に一筋の涙の跡が光っていた。
なぜだろう。
天井がぼやけてくる。
まだあの人の死を受け入れたわけではないのに。
ハンカチを取り出そうと懐に手をやると、小さな固いものが指先に触れた。
大石会長がくれた龍の形をした翡翠の根付だ。

「たまちゃん、大丈夫か!」
血相を変えて大石が病室に飛び込んできた。
珠美は踊りの稽古の後、夏季恒例のビアガーデンの準備をしていたのだが、椅子を運ぼうと持ち上げた途端に眩暈を起こし、意識を失って倒れてしまった。
会場にいた他の芸妓や舞子達が慌てて救急車を手配してくれたらしい。
念のために行った検査でお腹の中にドッヂボール程の大きさの子宮筋腫が発覚した。
付き添ってくれた芸妓が翌日に緊急手術を行うことを目を覚ましたばかりの珠美に教えてくれた。
芸妓に礼を言い、帰ってもらったその約1時間後に、こうして大石が駆け付けたのだ。
きっとたま居のおかあさんが連絡をしてくれたのだろう。
息せき切って呼吸もままならない大石がおかしくて、珠美はつい笑ってしまった。
「大丈夫どすがな。ちょっと眩暈しただけどす。」
しかし、大石は真剣な表情を崩さない。
「絶対に、諦めたらあかん。」
その言葉から、珠美の状態を詳しく聞いたことが推察できた。
きっとたま居のお母さんが話してくれたのだろう。
「そんな大げさな。」
珠美はあまりにも急すぎて自分でも信じられなかった。
そして、大石の真剣な顔に思わずふふふと笑ってしまう。
すると大石は珠美の手を取り、武骨な両手で優しく包み込んだ。
「俺も、お母ちゃんも珠美が必要なんや。」
大石は普段、妻の恵美子夫人のことを『お母ちゃん』と呼んでいた。
「まぁ、なんて人!」
これでもまだ、あんたの女なんやけど。と珠美は内心で思う。
いや、明日行われる子宮全摘出の手術で女ではなくなってしまうのか。
それどころか、これが最後になるのかもしれない。
それでもあまりに急すぎて、何だか夢を見ているような現実感のなさだった。
「そや、これを渡しとくわ。」
そう言って、大石は財布につけていた根付を珠美に握らせた。
「これはわしの家に伝わる翡翠の根付や。江戸時代のもんらしい。・・・運を呼び寄せる龍でな。わしも何べんも助けてもろうた。・・・その運を手にできるかどうかは自分次第なんやけどな。だから、これをたまちゃんに預けとく。」
「そんな!そんな大事なもんあかしま」
「そやから!・・・そやから、後でちゃんと返してくれ。・・・ええな。」
「・・・はい。おおきに。」
あぁ、やっぱり今でもこの人を好きや。
改めて珠美はそう思った。

その翌日、4時間に及ぶ子宮の全摘出手術は成功し、1週間の経過観察の後に退院となった。
珠美は手術の成否によらず、この時に芸妓をやめることを決意していた。
退院後、たま居のおかあさんにそう告げると、「自分も年だから、あんたにこの『たま居』を任せたい」と逆に頼まれてしまった。
一人の芸妓であった自分が置屋の経営だなんてと、正直迷ったものだ。
しかし、大石の勧めもあって女将を引き受け、すでに40年の月日が流れていた。
あれから何度も大石に根付を返そうとしたが、「後でや、あとで。」といつも笑ってそう言っていた。
そしてその後に「俺は死ぬんなら桜の季節がええ。桜の花のように潔く散りたい。」と続けた。

折しも亡くなったのは4月21日。
遅咲きのしだれ桜が満開でその言葉通りに大石は息を引き取った。
「死に顔すら見せへんやなんて、潔よすぎやわ。」
珠美はひとり呟く。
身を切られるような心の痛みとともに珠美は一晩中、涙を流し続けた。

 

おまけ短編『トキとタマ』

「ごめんやす。」トキは置屋の玄関で声をかけた。
「へぇ、おいでやす。」と舞妓が顔をのぞかせる。
「女将さん、いてはりますやろか?三村が来たて、ゆうとくれやす。」
トキがそう告げると、舞妓は奥へと戻っていった。
ほんまに、おぼこい。
その舞妓の姿を眩しそうにトキは眺めていた。
ほどなくして珠美が現れた。
「あら!トキちゃん!珍しいわね。ささ、上がって上がって。」
珠美の顔がパッと輝く。
トキもつられて微笑んだ。

珠美の部屋に入った二人はソファに向かい合って腰を下ろした。
同い年ながらまったく印象の異なる二人。
トキは背が低く、剛という程に骨太で矍鑠としている。
一方、珠美は昔の人にしては背が高く、柔らかさの中に芯の通った凛とした雰囲気を持っていた。
「珠ちゃん、これ、お土産。」
トキはテーブルに紙袋をドンと置いた。
ロゴの鮮やかなフレンチブルーが目を引く。
「ま!ジャンポールエヴァンやないの!」珠美の目が輝いた。
「あんたの好きそうなやつやろ?」
「いやぁ、おおきに。あ、そうそう、三嶋亭のビフカツサンドあるんやけど、食べる?」
「お肉大好き!」
「でしょ?」
珠美はそういうとキッチンへ向かい、コーヒーとサンドイッチを用意して戻ってきた。
二人でそれを味わいながら近況報告をする。

トキの造園業はさほどコロナの影響を受けなかったものの、年々職人が減ってゆく中での技術継承に頭を悩ませていた。
珠美の方はコロナの影響が大きく、また、自分の置屋の舞妓が感染したこともあり、かなり苦戦をしていた。
「それは大変やねぇ。」トキは顔をしかめた。
「まぁ、でも戦後すぐの頃よりはマシよ。」珠美はホホホと笑う。
「そうはゆうけど・・・。」
「ま、何とかなるわよ。うちの子たちも頑張ってるしねぇ。」
「そうそう、今日来たのはそれよ!うちの孫の佳介が、珠ちゃんとこの美冬ゆう芸妓に熱を上げとってな。」トキは少し恥ずかしそうに話した。
「あ~!この間、美冬ちゃんの送り迎えに来てくれたのって、トキちゃんのお孫さん?」
「そうなんよ。まぁ、その美冬ちゃんが送り火の保存会やら手伝うてくれたらしいねんけど、どんなもんやろうて思うて。」
「美冬ちゃんは真面目な子よ。現実的すぎるところがあるさかい、夢を持てへんゆうところはあるけど、すごくよく気の付くいい子よ。」
珠美は掛け値なしの本音を話した。
跡を継がせる志保のサポートにぜひ欲しいと思っていたくらいだ。
しかし、縁談があるのならば美冬の幸せを考えてあげたい。
「へぇ、うちの佳介と反対やな。孫は夢ばっかり見たいなことゆうて前が見えてへんわ。」
トキはそう言って苦笑する。
「ま!じゃぁ、丁度ピッタリやないの。」
珠美はパッと顔を明るくする。
「・・・うちらの時は好いたの惚れたの、わかりやすかったんやけど、今の子らはさっぱりわからん。」顔をしかめながら話すトキに珠美は笑いながら言った。
「トキちゃんは駆け引きしないんだから一生わからないわよ。」
「商売は目一杯、駆け引きしてるんやけど。」
「まぁまぁ。あの子たちは大丈夫よ。美冬のこと、よろしくお願いいたします。」
そういって、珠美は頭を下げた。
「こちらこそ。」トキも頭を下げる。
「そやけど、実家の平岡はんは難しいんと違う?」ふと思い出してトキは言った。
「美冬のお父さんのこと?それやったら心配ないわ。あの子が幸せになるんやったら、きっと折れて曲がらはるから。」その言葉にトキは目をむく。
「ほんまかいな!」
それまでに何年も美冬の父と付き合いのある珠美はトキの言葉を笑い飛ばした。
「娘思いの優しい人よ。」
「ふうん。」
トキは半信半疑に返事をする。
「それよりちょっと、うちの志保にもいい人紹介してよ。この間も今宮さんにお参りに行くぇゆうたら『縁結びやなんてうちの柄やない』やて。年頃の女が聞いてあきれるわ。」
しばらく考えていたトキがふと思いついて言う。
「そや、天満寺の塔頭の華玄院さんの息子さんは?」
トキは華玄院の庭を手入れさせてもらっている縁から息子さんの縁談の相談も受けていた。
「あ~!いい人やねんけど、息子さんがかわいそう。ちょっと押しの弱い人やし、志保に顎で使われるやん。」
「もうちょっと、自分の娘を信じたりぃな。案外、結婚したら変わるもんやで。」
「それやったら、高倉健みたいに黙って手を引っ張ってくれるような人でないとあかんわ。」
「そんなんいたら、うちがもろてるわ。」
「ま!ちょっとトキちゃん、あんたいくつや思てんのん。棺桶に片足突っ込んでんのにまだ結婚する気?」珠美は心から笑い声をあげる。
「珠ちゃんかてしたらええがな。」
「ううん。・・・うちはもうええねん。」ため息交じりに珠美は答えた。
「・・・大石はんか。新聞で見たわ。・・・まぁ、すぐにあの世で会えるわ。」
トキはそっと珠美の手を取る。
「うん。・・・そやね。」
「・・・志保ちゃんのことは当たってみるさかい、まかしとき。」
「お願いね。」
「うちを誰やと思てんのん。荒神小町のおトキやで!まかしとき!」
フン!と鼻息荒くトキが腕をまくる。
「いよっ!待ってました!」
二人はし

ばらくの間、笑い続けた。

(終)

 

あとがき

この度は最後までこの小説を読んでくださいまして本当にありがとうございます。
コロナになってからというもの、世界の様相は大きく変わりました。
緊急事態宣言や給付金、GoToキャンペーンなどといった
今までにはないことが連続して起こり、変わらなくてはならない時代になっています。

そこで、普段はジェラートやスイーツの製造をしている私ですが、
ふと、京都新聞に「京都文学賞」の作品募集の広告を目にしたことから、
コロナ以後の新しいこととして小説を書き始めました。
企画・構想から完成まで2ヶ月という短い間でしたが、バタバタと忙しい中で何とか完成しました。

京都に生まれ育ち、洛北の地で長らく暮らしているので
その洛北の魅力を少しでも伝えることができればと思っております。
本作に登場するお店は実際に存在するお店をモデルに書いています。
実名のところもあれば仮名のところもありますが、基本的に大好きなお店ばかりです。

小説の最後に出てくる手描き友禅のお店は北山にある私の同級生のお店です。
洋服やハンカチなどに素敵な絵を描いてくれます。
ご興味のある方は「手描き友禅 碧」で検索してみてください。

また、ジェラート・ベネのシーンは実際に起こったことをそのまま書いています。
マダムの魅力をすべて書ききっているとは言えませんが、その一端に触れていただければと思います。

いろんな意味で『変わらなければならない』時代ではありますが、それ故に『変えずに伝えてゆくもの』をいかに伝えるのか。
それはとても難しいことのように思えますが、覚悟を持って実行すればきっと道は開けるのだと思います。
それをこの小説に詰め込みました。

一人ひとりにとって大変な時ではありますが、この小説が皆様の元気の素になればこれ以上の幸せはありません。
本当に、ありがとうございます。

ぜひ、皆様のご感想をお聞かせください。
次回作へのモチベーションになります。
企画・構想はすでに始めていますので、ご期待ください。